肥前名護屋城の崩れた石垣 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

●歴史から考える「権力が倒れる時」(1)
●歴史から考える「権力が倒れる時」(2)

「天下人」権力を手に収めた秀吉

 織田家の家督は、清洲会議によって三法師(のちの秀信)が継いだ。けれども、信長が持っていた「天下人」の権力は、信長が個人の力で確立していったものであった、別に織田家の家督に由来するものではなかった。そんな個人的な力を、会議や合意によって継承できるわけがない。誰かが、個人の力で回収するしかないのだ。

清洲城跡に復元された石垣

 ライバルを次々と倒すことによって、「天下人」権力を手に収めたのは、秀吉である。彼は朝廷の庇護者として振る舞うことによって、関白という高い地位を手にして、姓も豊臣と改めた。関白は朝廷の首班的な立場だがら、征夷大将軍を任じる側、つまりは足利将軍よりも「偉い人」である。室町幕府は、いつの間にかこっそり消滅したことになる。

 こうして、武力で全国を統一するとともに、武家権力と公家権力とを統合する立場を得た秀吉は、稀代の専制君主となった。しかし、1598年に秀吉が死ぬと、後継者の秀頼が幼弱であったため、豊臣政権はあっという間に空中分解してしまう。政権を支えていた有力者たちが権力闘争を始めたからだ。

伏見桃山城模擬天守。豊臣秀吉は天下人へと登りつめていった

 結果はご存じの通りで、1600年の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康が、全国の武士に対する軍事指揮権を握って、徳川幕府(江戸幕府)が誕生することになる。ただし、家康が豊臣家を滅ぼすのは、それから11年も後のことである。その間、豊臣家は腐りも滅びもせず、関白継承予定者として存続していた。

 家康が、征夷大将軍に任官してから11年もたって、あらためて豊臣家を滅ぼす決心をしたのは、秀頼が成長したからである。秀頼が、秀吉の後継者として関白に任じられれば、徳川将軍家に対する重大な脅威となるからだ。そして、全国の大名を動員して大坂城の豊臣秀頼を滅ぼすというイベントは、全国の武士に対する軍事指揮権を握るのが誰かを確認するために必要な手続きであった(その意味では源頼朝の奥州侵攻に似ている)。

大坂城

 徳川幕府の強大な軍事力に逆らうことのできる者は、もはや日本にはいなかった。ただし、将軍(徳川家当主)が政権のリーダーシップを握っていたのは、家康・秀忠・家光の3代くらいの間だ。

 その後は、第5代の綱吉と第8代の吉宗が、強い個性でリーダーシップを発揮したくらいで、将軍本人はおおむねボンクラであった。それでも、徳川家の有力な家臣たち(譜代大名)が、入れ替わり立ち替わりで政治を主導したので、幕府という権力の枠組みそのものは、つつがなく維持できた。

江戸城の天守台。明暦の大火(1657)で消失した本丸に築かれたが、天守そのものは再建されなかった

 1800年代の半ばを過ぎる頃には、内外の政治情勢が騒がしくなってきたが、老中・阿部正弘のような俊英や、大老・井伊直弼のような果断な人物が、政治のリーダーシップをとった。下層の幕臣から、勝海舟・大鳥圭介・榎本武揚といった人材を輩出した事実も見逃せない。

福山城に立つ阿部正弘像。当時の阿部家は福山藩主だった

 長期間権力の座にあったことで、動脈硬化の傾向を生じていたとはいえ、徳川幕府は、変革を実現するだけのダイナミズムは、必ずしも失っていなかった。幕府・徳川将軍家というより、むしろ幕藩体制という領邦国家の枠組みが、1800年代後半の情勢に対応しきれなくなっていた、と考えた方がよいだろう。

 

[参考図書] 豊臣秀吉の真の強さとは? 清洲会議の実態とは? 戦国武将と天下統一のリアルについて知りたい方は拙著『戦国武将の現場感覚』(KAWADE夢文庫)を是非ご一読下さい。