連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

井原西鶴は、「男色ほど美なるもてあそびはなき」、「女(じよ)を捨て男(なん)にかたむくべし」と、『男色大鑑』で高唱している(写真は男色を描いた春画)

 日本では平安時代末期から明治時代初期までの約800年間もの長きにわたって男色は決して倒錯的行為ではなく、また、女色と比較して倫理的に問題がある行為と見なされることはなかった。

 我が国における男色の記録は、古代に遡る。

『日本書紀』には第14代天皇・仲哀天皇の皇后だった「神功皇后」の項に、「摂政元年に昼が闇のようになり」とあり、これが何日間も続いた。

 皇后がこの怪異の理由を尋ねたところ、ある老人が言うには、神官の小竹祝(シノノハフリ)の病死を悲しんだ天野祝(アマノノハフリ)が後を追い、両人を同じ場所で合葬した「阿豆那比之罪(アヅナヒノツミ)」ためであるという。

 そこで墓を掘り返し、両者を別々に埋葬すると、直ちに日が照り出したという、『日本書紀「阿豆那比之罪」』の記述が、日本最古の同性愛の記録とされる。

 また、奈良時代後期には史上6人目の女性天皇である孝謙天皇の皇太子に立てられた道祖王(ふなどおう)が、先帝である聖武天皇の喪中に侍童と姦淫に耽りし、聖武天皇への服喪の礼を失したとの理由で、廃嫡となったという男色の記録もある。

 平安時代末期になると男性同性愛の流行が公家にも及ぶ。

 複数の男色関係を明言している宇治左大臣・藤原頼長の、『台記』(たいき)には、頼長が稚児や舞人、源義賢ら武士や貴族たちと同性愛行為に及んだとある。

戦国武将も嗜んだ男色

 室町時代、将軍の小姓制度が確立すると、足利義満の寵童の一人で、能楽の創始者・世阿弥は、将軍お抱えの能楽師となり、将軍に寵愛されて、能楽も庇護を受けて発展。

 この時代に成立した能や狂言には男色が多く取り入れられている。

 代表的なものに葉から滴る露が薬の酒となり、それを飲んだため不老不死になった「菊慈童」、7歳で天狗にさらわれたが、後に父子対面を果たす「花月」などがある。

 また、少年愛を綴った文学には、修行僧・幻夢と稚児花松の、『幻夢物語』、僧都の寺に預けられた松寿丸を世捨て人の一条郎が見そめる、『嵯峨物語』。

 稚児との男色を綴った『鳥辺山物語』など、公家や寺院にかかわる多くの稚児物語が記されている。

 平安時代の僧侶や公家の間で性欲処理を目的とした男色は、室町時代以降になると戦地など、女人禁制、あるいは女性が周囲にいない環境で、武将が部下の「お小姓」に手を出すなど武家の間でも拡がりをみせる。

 それは、平安時代の公家の美少年趣味とは、些か異なるものである。

 江戸後期の太田錦城の随筆『梧窓漫筆(ごそうまんぴつ)』には、「戦国の時には男色盛んに行なはれ、寵童の中より大剛の勇士多く出づ」とある。

 戦国時代には武士の男色が盛んになり、戦国大名の多くが小姓を男色の対象とした。

 武田信玄(当時は晴信)が26才の時、小姓・春日源助がいながら、別の小姓・弥七郎と浮気し、嫉妬に狂う恋人・源助に詰め寄られた信玄は、以下のように弥七郎との関係を否定する起請文で釈明している。

「弥七郎に何度も言い寄ったが、腹痛(虫気)を理由に断られたので、夜伽(よとぎ )の相手をさせてもらってはいない。嘘ではない。そちに疑われ、わしはとても困惑している」

 伊達政宗の小姓・片倉重綱は、関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、東軍勝利の契機をつくった小早川秀秋を一目惚れさせるほどの美男子だった。

 片倉氏の歴史が綴られた、『片倉代々記』には、秀秋が大坂夏の陣で先鋒を志願した重綱の顔を、強引に引き寄せて接吻を迫った、の記述がある。