意外と高かった陰間遊び
男色を売る少年は、京や大坂から連れてこられた方が、物腰が柔らかく、上方言葉が上品であり、高級とされ、江戸の少年よりも格が上で値段も高かった。
少年らは、遊女の世界と同様に、芸事の腕・顧客の性癖を満足させる性技の腕を磨き、客の心を繋ぎ止めるため、自らを磨き、高めることに余念がなかったという。
『江戸男色細見 菊の園』、『男色評判記 男色品定』によれば、陰間の値段は、一刻2時間で4分の1両の1分。一晩買い切りで3両ほどしたとある。
江戸中期の1両は現在の価値で12万円ほどであるから、美しい歌舞伎役者の少年を一晩貸し切ると36万円ほどかかることになり、かなりの高値といえる。
その理由は、陰間の盛りは瑞々しく艶のある10〜17歳であり、髭が生え声変わりする前の短い期間しか働けなかったためである。
陰間遊びの客には僧侶や侍、町人や地方からの旅行者といった人々も散見したようだが、江戸中期以降には金持ちの商家の後家や御殿女中といった女性客の姿も見られるようになった。
女性客と売色の美少年を表す川柳がある。
「芝居とはそら事女中陰間なり」
「背に腹を替へて芳町客をとり」
「女でも男でもよし(芳)町といひ」
「よし町で女の客は返りうち」
売色少年が男性客だけでなく、女性にも春をひさいだ、つまり、男が女に売色し、女が男を買春するという、江戸時代末期に始まった新たな性欲処理のベクトルは、我が国における性風俗の一大転機といえよう。
江戸市中に点在し、繁栄を極めた陰間茶屋は、天保の改革における厳しいと取り締まりをもって、その姿を消した。
平安時代末期から明治時代初期までの約800年間、我が国において男色は決して倒錯的行為とか、女色と比較しても倫理的に問題がある行為と見なされることはなかった。
しかし、江戸時代末期、日本を訪れた西洋人の批判を受けた江戸幕府や明治新政府の権力者たちにより、男性同性愛は不品行なものとされ、そうした価値観が定着したことで、男色文化は世間から憚られ、地下に潜ることになる。
平賀源内は、人間の性的趣向について、こう述べている。
「女郎好きは若衆を嫌がり、若衆好きは女郎好きを謗る」
「この議論は昔からどちらが勝ちでも負けでもない」
「いつの世にも男色と女色は存在し、(女色の)吉原にも(男色の)堺町にも色に狂った馬鹿が絶えない」