徳川家康(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』がスタートし、豊臣秀吉の弟・秀長を主人公に据えた物語が話題を呼んでいる。兄を天下人にするべく、秀長は時には心許せる弟として、時には頼れる側近として、秀吉を支えていくことになる。今後のキーパーソンになるのが、徳川家康だ。ドラマでは松下洸平が演じており、状況を冷静に判断し、腹の読めない人物として描かれている。実際の家康は、戦国大名きっての読書家でもあった。時流を読む大局観は、膨大な読書から得たものだといってよいだろう。家康はどんな本を読み、そこからどんなことを得て、人生のターニングポイントで生かしたのか。
(*)本稿は、『本を読む人だけが、“自分の壁”を突破できる』(真山知幸著/青春出版社)の一部を抜粋・再編集したものです。
家康の慎重さを育んだ歴史書『吾妻鏡』
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし」
幕末期に幕臣の池田松之介が「家康の遺訓」として創作したフレーズだ。本人のものとして後世で誤解が広がったのは、「辛抱強い」「耐え忍んだ」という家康のイメージにぴったりな言葉だからだろう。
家康に「焦らず我慢して天下を取った」という印象が強いことは、この有名な風刺の歌からもわかる。
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」
だが、家康の生涯を見ていけば、「急ぐべからず」どころか「機を見るに敏」とばかりに、好機と見るやすばやくアクションを起こし、「座りしまま」どころかアグレッシブに挑戦しては失敗し、次に生かすことで、天下人となったことがわかる。
家康は幼少期から今川家の人質だったが、永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで、総大将の今川義元が織田信長率いる織田軍に討たれると、早々と今川を見切っている。妻子を置いてきた駿府城ではなく、生まれ故郷である岡崎城へと向かい、17歳で独立を果たしたかと思うと、今川の敵である織田信長と清洲同盟を結ぶという決断を下している。
三河の支配にあたっても、家康は大胆な行動に出た。一向宗の寺に認められていた、課税や外部の立ち入りを拒否できる「守護使不入(しゅごしふにゅう)」の特権を無視し、強引に年貢を取り立てたのである。
家康に反発した三河国内の一向宗信徒が蜂起すると、一揆側の和睦案をいったんは呑んで相手が武装解除するのを待ってから、和議を反故にし、領内の一向宗を禁止したうえで寺を破却。三河から僧と信徒を追放する、という強権ぶりを発揮している。
家康はむしろアグレッシブすぎるがゆえに、痛い目に遭ったこともある。今川領をめぐって甲斐の武田信玄と対立したときには、自分がいる浜松城の前を信玄が素通りしたことに激怒。家臣が止めるのも聞かずに、城から打って出たところを狙われて、壊滅状態に陥るほどの惨敗を喫した。家康の手痛い敗戦は「三方ヶ原の戦い」と呼ばれ、後世で語り草になっている。
そんな迂闊なほどに行動力あふれる家康が後世において、どちらかというと「動」というより「静」の慎重なリーダーとされるのはなぜだろうか。
それはおそらく、関ヶ原合戦で勝利してからの振る舞いが、家康の印象を形作ったに違いない。天下人が間近になったときの家康は、確かに慎重そのものだった。薄皮をはぐかのように、豊臣家から少しずつ実権を奪っている。
すべては戦のない平和な長期政権を築くための布石であり、そのために家康が大いに参考にした本が、鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』である。
