桶狭間古戦場跡 撮影/西股 総生(以下同)
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(歴史ライター:西股 総生)

今川軍は4万5千?

 永禄3年(1560)の5月、尾張に侵攻した今川義元の大軍に対し、織田信長は小勢をもって果敢に挑み、義元本人を討ち取るという大勝利をおさめた。では、このときの今川の「大軍」とは、実際にはどのくらいの兵力だったのだろう?

 試みにウィキペディアで「桶狭間の戦い」を引いてみると、今川軍2万5千となっている。2005年に吉川弘文館から刊行された『戦国武将合戦辞典』の「桶狭間の戦」の項にも、「4万(実数は2万5千と推測される)」と書いてある(担当:岩沢愿彦)。その他、信長や戦国合戦について書かれたものを読んでも2万5千と書いてあることが多く、これが現在の通説といってよさそうだ。

 では、この「2万5千」という数字の出所はどこなのだろうと思って、手元の『信長公記』をひもといてみたところ、意外なことがわかった(奥野高広・岩沢愿彦校注「岩波古典文学大系」版)。

清洲城跡に建つ織田信長像。桶狭間に出撃した際のイメージで造形されている

 『信長公記』は、信長の弓衆でのちに書記のような仕事をした太田牛一という人が、手元の備忘録などをもとに書いた記録である。記述の中には勘違いや誤情報のたぐいも混じってはいるが、概して信頼性が高く、信長研究の基礎史料として知られている。 

 その『信長公記』では、桶狭間の今川軍を何と「4万5千」と書いているのだ。ちょっと大きすぎやしないだろうか、太田牛一は何を根拠に「4万5千」と記したのだろう。そう思って『信長公記』をめくってみたが、合戦関係の記事で両軍の兵力を「何万何千」のように具体的に書いている箇所は、実はあまり多くないのだ。信長が率いた織田軍の数すら、書いていない場合がほとんどである。

 元亀元年(1570)の姉川合戦について、浅井軍5千+朝倉軍8千と記していたり、天正3年(1575)の長篠合戦について、織田軍3万、武田軍1万5千とあるのは、なるほどありそうな数字といえる。けれども、明らかに誇大と思われる兵力数を書いている箇所も目立つ。

長篠の古戦場。織田信長・徳川家康の連合軍は、ここで武田勝頼の軍を撃破した

 一方で個別の戦闘シーンでは、ありそうな数字が具体的に書かれていたりする。たとえば桶狭間で今川義元の本陣が織田軍の急襲を受けて潰走する際、今川の旗本が3百騎ほど丸く固まって義元を守っていたが、何度か戦っているうちに50騎ほどになったとある。

 どうも『信長公記』の兵力の記載には、信頼できそうな数字と、インチキ臭い数字とが混在しているようなのだ。おそらく、牛一本人が戦場で実見したか、ないしは実際に戦闘に参加した人から直接話を聞いた箇所では、ありそうな兵力数を書いているが、そうでない場合は単にウワサなどを書き留めているのだろう。

名古屋市緑区にある桶狭間合戦伝承地(今川義元討死伝承地)

 あるいは、故意に誇張された兵力数が喧伝されていた場合もあるのもしれない。桶狭間の今川軍「4万5千」も、今川方がそう喧伝していたか、ないしは大軍を見てびっくりした領民が「4万5千」と言っていたか、真相はそのあたりではなかろうか。

  では、2万5千説の出所はどこか調べてみたところ、明治時代に陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』というシリーズの「桶狭間役」に行き着いた。このシリーズは、明治の陸軍が戦史研究の一環として編纂・刊行したものだ。では、同書は何を典拠として今川軍を「2万5千」と記したのだろうか?

こちらは豊明市の桶狭間合戦伝承地。合戦伝承地が複数あるのは、潰走した今川軍が随所で追撃を受けて戦死者を出したためだろう