織田軍は2千?3千?4千?
参謀本部の手になる『日本戦史・桶狭間役』は、実は戦国期の文書・記録や近世の軍記類などを引用して、今川軍を「2万5千」と書いているわけではない。
まず、桶狭間合戦の頃の今川家の勢力範囲は、駿河・遠江・三河から尾張の東部に食い込んでいたが、江戸時代・貞享年間(1680年代)の記録を基にして、この「今川領」の石高を約100万石と推定。次に、慶長5年(1600)に徳川家康が会津討伐を発動した際の動員基準が1万石に付300人、元和元年(1615)の大坂の陣の際は1万石に付200人だったことを基に、1万石に付250人が戦国時代の平均的動員力だったと見なして、250×100=2万5000と算出しているのだ。
静岡市にある臨済寺。今川氏の崇敬あつい禅宗寺院で、人質時代の竹千代もここで勉学に励んだと伝わる
一見もっともらしい根拠のようではあるが、貞享年間の史料を基に永禄3年(1560)の石高を算出したり、動員体制の整備された関ヶ原や大坂の陣の頃の基準を半世紀以上遡って適用する算出方法には、疑問が残る。
また『日本戦史・桶狭間役』は織田軍について、当時は尾張の五分の二ほどを掌握していたとみて、同じ算出方法で石高を約16万〜17万石、兵力を4千と推計している。織田軍については、『信長公記』は信長が桶狭間に向かった際の兵力を約2千と記しており、大久保彦左衛門が書いた『三河物語』は約3千としている。
清洲城跡。織田信長はここを本拠として尾張統一を進めていった
桶狭間合戦の際、織田軍は丸根砦・鷲津砦など前線の数か所の砦に兵を派出しているし、信長は急に出撃を命令して清洲城を発しているから、桶狭間に参戦できなかった部隊・将兵もあっただろう。信長が桶狭間に直卒した兵力を2千〜3千、砦に派出した兵力や残存部隊を含めた、織田軍本来の総兵力を約4千と見積もれば、参謀本部の推計はまんざらでもないことになる。
だとするなら、今川軍が総力を挙げれば、2万5千は無理でも2万くらいは動員できそうではないか、という考えも頭をよぎるが、実はここが問題である。というのも、もともと尾張東部における今川・織田双方の勢力争いに端を発したのが桶狭間合戦だったからだ。
丸根砦跡。鳴海城封鎖のために織田軍が築いた砦
まず、織田方の最前線であった鳴海城の山口左馬助が今川方に寝返り、さらに大高・沓掛の2城も調略された。そこで信長は、丸根や鷲津など数か所に砦を築いて今川方との連絡を絶ち、3城を締め上げた。そこで義元は、鳴海・大高・沓掛の3城を解放して、尾張東部における今川方の覇権を確立しようとしたわけである。
しかもこの時点で、義元は今川家の家督をすでに氏真に譲っていたことがわかっている。今川家の勢力が遠江→三河→尾張東部へと拡大し、同地方の国衆たちが続々と今川家の傘下に入ってき状況下で、権力の移譲を円滑に行うための措置だ。わりやすくいうなら、本社の社長を息子に譲り、自分は今川ホールディングスの会長として、グループ全体を統括するみたいなやり方である。
はたして、そのような状況下、上記のような目的の作戦で、両国全域にわたる総動員を行うものだろうか。無論、信長本人が織田軍主力を率いて出てきたなら、一気に叩きつぶしてやろう、くらいのことは想定していたかもしれない。
鷲津砦跡。桶狭間の前哨戦では丸根砦とともに今川軍に蹴散らされた
しかし、状況と作戦目的を考えるなら、領国全域から全力動員を行う必要はなかったし、本国が空っぽになってしまうような動員は、そもそも無理であっただろう。今川軍の実際の兵力は1万数千程度、つまり参謀本部が推定した兵力数の半分くらいではなかったか。
しかも、今川軍は織田方の砦を攻略するために相応の兵力を分散させていたはずだし、1万数千の総兵力の中には、桶狭間合戦に直接は参加していない徳川軍も含まれる。2千かそこらと推測できる信長の兵力と、運良く捕捉できた義元本陣との兵力差は、そんなに大きくなかったのかもしれない。
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