撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

江戸はいつ大都市になったのか?(前編)

戦略拠点として運用する城

 公方勢力と管領勢力によって関東平野が東西に二分されている情勢下にあって、江戸は管領軍による“対古河公方戦線”の最南端に位置する。これより南側を陸路で迂回される心配はない。

 しかも、江戸城は武蔵野台地の南東の端に位置している。いまでも千代田区から東は「0メートル地帯」であることからわかるように、当時も江戸城から東には河口地帯が広がっていたから、古河公方軍の侵入に備えるには好適だ。

江戸城西ノ丸下の水堀と大手町のビル街。広大な水堀はかつて入江だった名残り

 加えて、眼下には船荷の積み換えや荷下ろしをする船着き場があって、市が立ち並んでいるから、兵糧や軍需物資を集めるには事欠かない。管領軍にとって江戸は、防衛拠点としても作戦基地としても、うってつけの立地だったことがわかる。

 太田道灌の時代に武蔵の戦略拠点として取り立てられた城としては、他に河越城・岩付城・松山城・鉢形城などかあるが、面白いことにこれらの城は皆、戦国時代の最後まで戦略拠点として重視されつづけた。江戸城・河越城・岩付城に至っては、近世城郭としても存続している。上野の厩橋(前橋)城や太田金山城、下野の唐沢山城なども同様である。

埼玉県寄居町にある鉢形城。道灌のライバルだった長尾景春が荒川の断崖を利用して築き、のちに北条氏邦の居城となった

 前線における防禦陣地のような城と違って、戦略拠点として運用する城は、兵員や物資を動かしやすいように交通の要衝を選んで築かれるからだ。しかも、いったん戦略拠点が置かれて軍勢が駐屯するようになると、消費需要が生まれる。

 軍勢は、いるだけで食料や日用品を消費するし、武具の購入や手入れ、建物の増築や修理といった需要もあれば、娯楽だって求められる。こうして、交通の要衝に築かれた城のまわりには、人・物・金が集まってきて、町場を形成してゆくのだ。道灌が、主君の扇谷定正によって粛清された文明18年(1486)の頃には、江戸は一介の農村・漁村という域を脱していたはずである。

神奈川県伊勢原市にある伝太田道灌首塚。道灌はこの近くにある糟屋館で謀殺された

 江戸の街がさらにステップアップするのが、北条氏の時代だ。道灌の死後、江戸城は扇谷上杉家の重要な拠点となっていたが、大永4年(1524)にいたって小田原の北条氏綱が、これを奪取する。北条軍と扇谷軍とは、ここのちしばらく一進一退の攻防を続けるものの、氏綱は江戸城だけは決して敵の手に渡さなかった。この地の戦略的価値が、よくわかっていたからだろう。

東京都調布市の深大寺城跡。扇谷上杉軍が江戸城奪回を策して築いた城だったが作戦は失敗し、城は放棄された

 ここで、頭の中に関東の地図を思い浮かべていただきたい。小田原を本拠とした北条氏が、武蔵から関東一円へと勢力を広げていこうとすると、どうしたって江戸が扇の要の位置にくる。しかも江戸は、もともと交通の要衝としてのポテンシャルを持っているのだ。北条氏が江戸城を重視しないわけはない。

 筆者がこれまで見てきた限り、小田原城に次いでもっとも多く北条氏の文書に登場する城は、間違いなく江戸城である(文書では「江城」と書かれるのが普通)。江戸は、北条氏の領国下では「副首都」のような位置付けにあり、戦国時代の後半には関東で屈指の都市になっていたとみて間違いない。

北条氏が築いた山中城(静岡県三島市)。戦国末期の江戸城もこのような実戦的な姿だっただろう

 天正18年(1590)に徳川家康が入部した頃の江戸は、さびしい漁村のような場所だった、という「通説」は、歴史的に見てありえないのである。では、なぜそのような「都市伝説」が生まれたのかが気になる方は、ぜひ拙著『戦国武将の現場感覚』をご一読いただきたい(KAWADE夢文庫)。

 また、香川元太郎氏のイラスト集『戦国の城』には太田道灌時代の、『合戦の城』には北条氏時代末期の江戸城の推定復元イラストが収められている。両イラストとも筆者が考証・解説を手がけているので、興味のある方はご参照いただけると幸いである(両書共ワンパブリッシング)。