牛込門の石垣 撮影/西股 総生(以下同)
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(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は「江戸城を知る」シリーズの最終回、最大の見せ場である「外郭」をご紹介します。

総延長は何と14キロ

 1年間にわたって江戸城の見所を紹介しながら、この城が日本最大・最強の城であることを語ってきたが、最後の最後に最大最強の見せ場を紹介しよう。江戸城の外郭である。

 江戸城の外郭は、総延長が何と14キロにもおよび、現在の千代田区と中央区のほとんどが入ってしまうという広大さを誇っている。では、この長大な外郭ラインはいかに生まれたのであろうか。

 まず、秀忠の元和8年(1622)に、江戸城の北にあった駿河台の台地を掘り割って、旧平川の流路を神田川にぶつけて隅田川に流す工事が行われた。現在の中央・総武線飯田橋駅-水道橋駅-御茶ノ水駅-浅草橋駅のラインである。

浅草橋にある神田川と隅田川との合流点。江戸城外郭線の北東側終点にあたる場所だ

 これは、江戸城の北側に外郭防衛線を敷くと同時に、城の東から南東にかけて広がっていた低地を安定させるための工事で、日本橋や銀座・日比谷の一帯の開発が進んで町場が本格的に形成されるようになった。さらに、3代将軍家光の寛永5年(1628)から15年(1638)にかけて、飯田橋から西方の外郭線が断続的に築造されて、上記の規模となったものだ。

 ところで、赤坂見附というと、港区のオシャレタウンをイメージする人が多いと思う。だが、「見附」とは監視哨とか検問所の意味である。「赤坂」は赤土(=関東ローム層)の目立つ坂だから、赤坂見附は台地の上に上がる坂に設けられた検問所というわけだ。

赤坂見附駅近くに残る赤坂御門の石垣

 付言すると、青山・広尾・六本木・原宿などもオシャレなイメージの強い街だが、語義からするならいずれも田舎くさい農村地名である。そのあたりは、江戸時代にはまだまだ畠や雑木林が目立つ、のどかな風景が広がっていてたのだ。

 話を戻そう。総延長14キロもある外郭を築けば、出入り口が何か所も必要になる。その出入り口=監視哨を伴う検問所が「見附」なのである。江戸城外郭には多数の見附が設けられ、主要な箇所は厳重な枡形虎口で固められていた。

浅草橋近くにある浅草見附跡。気付く人も少なく石碑が往事を伝えるのみだ

 では、実際に江戸城の外郭をたどってみよう。飯田橋-御茶ノ水-浅草橋の区間は、人工的に開削して流路を整えた神田川がそのまま水堀になっているから、パッと見は普通の都市河川に見える。それでも御茶ノ水駅のあたりは、何せ駿河台の山を掘り割ったものだから、自然地形にしては不自然に谷が深いのが感じられるだろう。

御茶ノ水駅付近の神田川。右手がJRのホームで画面中央は丸ノ内線の鉄橋。このあたりは伊達政宗によって掘削されたもの

 城の遺構としてもっとも見ごたえがあるのは、外郭ラインの西側、駅名でいうなら飯田橋駅-市ケ谷駅-四ツ谷駅-赤坂見附駅のあたりだ。とくに飯田橋〜四ツ谷区間の濠は、一年を通して満々と水を湛えている。釣堀やら貸ボート屋が営業しているし、中央・総武線の線路まで通っているから、残念ながら江戸城の外堀だとは気付いていない人が多い。でも本当は、幅が100メートル以上もある、日本最大級の城の堀なのである。

飯田橋付近の広大な水堀。画面奥が飯田橋駅で、右手には土塁が見える

 さて、具体的に見所を紹介してゆこう。まずは、飯田橋駅を出たところにある牛込門(牛込見附)の石垣だ。飯田橋駅は意外に構造が複雑で出口も多いが、西口(B2出口など)に出るとわかりやすい。

 ここにあった巨大な枡形は、近代化の中で取り払われてしまったけれど、両側の石垣がよく残っていて説明板も立っている。本シリーズを読みながら江戸城を歩いてきた方なら、石垣を見れば枡形虎口だったことが理解できるはず。神楽坂の方から長大な木橋を渡って、巨大な枡形虎口を通っていた情景を、想像してみよう。

牛込門の石垣。多くの人が、超絶技巧に目を留めることもなく通り過ぎてゆく

 牛込門の石垣は、寛永13年(1636)頃に築造されたものだ。現在はすっかり煤けているものの、よく見ると非常に丁寧な積み方をしていることがわかる。道路の傍らにある石には「…入阿波守内」の文字が刻まれているので、徳島藩の蜂須賀忠英(ただてる)が担当したものとわかる。蜂須賀殿、いい仕事をされましたなあ。

駅前に横たわる大きな石には「…入阿波守内」の文字が