土塁も天下一品

弁慶濠。画面奥に赤坂御門の石垣が見える

 飯田橋で牛込門の石垣を見たら、ここから市ケ谷駅→四ツ谷駅と線路沿いに土手の上を歩いてゆくとよい。土手、いや江戸城外郭の土塁である。土塁の上から広大な水堀を眺めわたしていると、城の外郭線であることが実感できる。

 土塁は、市ケ谷駅のあたりから四ツ谷駅あたりにかけてがもっとも残りがよい。さすが江戸城の外郭だけあって、土塁も天下一品の規模だ。堀の片隅にすっぽり収まってしまっている駅のホームが、こぢんまりとさえ見える。

飯田橋駅西側に残る土塁と水堀

 土塁の上を歩きながら、ときどき太陽の位置を確かめる。市ケ谷の駅を出たときは西に向かっていたはずが、いつのまにか西→南西→南と方向が変わっていることがわかる。外郭のスケールが大きすぎて、歩いているだけだと全体形をつかみにくいのだ。

四ツ谷駅付近に残る巨大な土塁。土塁の上は散策路になっている

 土塁に沿って伸びてゆく堀は、四ツ谷駅を境として空堀へと変わる。といっても、もともとは水堀だったのを近代になってから埋め立てたので、空堀に見えているのだけで、広大な堀底は上智大学のグラウンドとなっている。このあたりの堀は、松代藩真田家が普請を担当したので、真田濠の名がついている。「真田濠」だなんて、ふふっ、どんな敵でも防げそうな名ではないか。

真田濠。ラグビー場で草野球をしている学生さん、由緒を知っているのかな?

 なおも歩いてゆくと、やがて土塁はホテルニューオータニの敷地に行き当たって途切れる。といっても、別にニューオータニが悪いわけではなく、堀の対岸(赤坂迎賓館の側)から土橋を渡ってニューオータニ側に入ってくる場所が、虎口になって土塁が途切れているのである。

 ここは喰違(くいちがい)木戸といって、四角な空間を伴う枡形ではなく、土塁を左右で互い違いにして敵を禦ぐ構造になっていた。現在は道路が貫通してしまっているけれど、道の両側を注意深く観察すれば、喰違の虎口だったことがわかるはずだ。

喰違木戸跡。現地で観察して喰違いの構造がわかるとテンションが上がる

 土橋を渡って、今度は外側の堀端を歩いてみよう。ニューオータニの敷地を角として、堀が90度折れて東へと向きを変えているのがわかる。堀端の道も下り坂になるが、堀そのものは再び水堀となる(弁慶濠)。喰違門の土橋がダムを兼ねているおかげだ。堀の水位を保てるように、ちゃんと要所要所で橋がダムを兼ねる構造に造ってあるのだ。

弁慶濠。画面右手上の森はニューオータニの庭園で、彦根藩井伊家屋敷の庭園跡

 ここまで歩いてくれば、江戸城の北から西に広がっている台地を、巨大な堀と土塁によって遮断して、高台からの敵の攻撃を防ごうとしていることがわかるだろう。堀そのものは、赤坂見附の所でおしまいとなって、外堀通りと名を変えて南東へと続く。低地部の堀が埋め立てられて、堀に沿った道が今は都心の大動脈となっているわけだ。

 もう少しだけ、外堀の痕跡に付き合ってみよう。赤坂見附駅の所から外堀通りを歩いてゆくと、左手の高台に山王日枝神社が見えてくる。神社の向こうの高台は永田町で、首相官邸をはじめとして、議員会館や国会議事堂、自民党本部などが建ち並び、あちこちに警官が立っている。日本国の権力の中枢は、今も江戸城の外郭に守られているようだ。

外堀通りから見上げた山王日枝神社。小高い台地の縁にあることがわかる

 外堀通りそのものは、虎ノ門→新橋→有楽町→八重洲へと続き、呉服橋の所で日本橋川にぶつかる。「橋」「州」の地名か多いことからわかるように、この方面はもともと浅瀬や湿地だった所だ。江戸の都市建設にあたっては、その低湿地を埋めて運河が縦横に通る町場とした。

 仮に敵が東海道を進んできて、低地側から江戸城に攻めかかろうとしても、運河が縦横に通る地形では部隊を思うように動かしたり展開したりできない。こちら側の守りは、見た目より固かったわけである。しかも、運河は江戸の繁栄を支える動脈ともなったのであるから、その都市計画の妙には恐れ入るばかりだ。

日比谷公園内に残る日比谷門の石垣。徳川家康が江戸に入る以前は浅瀬だった場所で、この石垣は伊達政宗が築いたもの

 というわけで、1年間にわたって江戸城の見所を紹介してきたわけだが、いかがだっだろう? 皆さんもぜひ一度、いや何度でも江戸城に足を運んで、この日本最大最強の城を堪能してみてはいかがだろう。