菅谷館 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

「菅谷館」ではなく「菅谷城」

 池袋駅から東武東上線の急行で1時間と少々。武蔵嵐山駅を降りて南へ15分ばかり歩いたところに、「菅谷館(すがややかた)」と呼ばれる城跡がある。この場所はもともと、鎌倉時代に畠山重忠の館があったところで、のちに戦国時代まで城として使われた、と言われている。

 畠山重忠といえば、大河ドラマ的にはイケメン中川大志くんである。いや、中川くんはともかくとして、畠山重忠といえば幾多の合戦で武功をあげ鎌倉武士の鑑と讃えられながらも、北条時政の謀略によって二俣川の合戦で無念と散った、悲劇のヒーローである。

 そんな重忠ゆかりの城跡があるのなら訪ねてみたい、と思う歴史ファンも多いだろう。城跡には重忠の像も建っていて、これはセメント製だが、なかなか鎌倉武士らしくて、カッコイイ(中川くんには似ていない、念のため)。

菅谷城跡に立つ畠山重忠の像

 また、「菅谷館」は国指定史跡となっている上、日本城郭協会の「続日本100名城」にも選定されている。立派なお墨付きのある由緒正しい城跡なのである……と、いいたいところだが、実は大きな「問題」を抱えた城なのだ。

菅谷城主郭の堀と土塁。なかなか大きな堀・土塁だ

 最大の「問題」は、呼び名だ。専門の城郭研究者、わけても関東地方で土の城を専門に研究している人たちは、この城を「菅谷館」ではなく「菅谷城」と呼ぶのが普通だ。なぜなら、どう見ても館や屋敷などではなく、立派な城だからだ。専門家の本音からすれば、「菅谷館」なんて口にするのも恥ずかしいくらいだ。

 実際に城跡を歩いてみても、主郭(本丸)を中心として、大きな土塁と空堀が幾重にも廻っている。しかも、横矢掛かり、枡形虎口、馬出といった技巧が駆使されている。明らかに「館」の域を大きく超えており、常識的に考えるなら戦国時代の城だ。

城内に立つ説明板。いくつもの曲輪が複雑に配されている様子が図からもわかる

 もちろんそんな事は、多少なりとも城の知識がある人なら、見ればすぐにわかるだろう。そこで、この城について紹介した本やパンフ類には、「畠山重忠の館が拡張改修されて戦国時代まで城とした使われた」みたいな説明が書いてある。

 なるほど。主郭がほぼ長方形をしているから、ここが重忠の館で、のちに堀や土塁を大きくして二ノ曲輪以下を拡張していったのだ、などとしたり顔で説明されると、そんな気がしてしまう。

  では、「畠山重忠の館が戦国時代まで城とした使われた」という通説は、どこまで妥当なのだろうか? まずは、史実として確認できる基本情報を整理してみよう。

菅谷城の西に残る鎌倉古道の跡

 戦国時代初期の1488年(長享2)には、山内上杉軍と扇谷上杉軍とが武蔵北部の須賀谷原と高見原で激突している。須賀谷原はずばり「菅谷館」のあたりだし、高見原はここから北西7キロほどの場所だ。

 しかも、1年のうちに、両軍が同じ地域で2度も衝突したのには訳がある。菅谷の地は、河越から鉢形(現在の寄居町)や上野へと抜ける鎌倉街道が、都幾川(ときがわ)を越える渡河点に位置している。そして、鉢形城は山内上杉方の、河越城は扇谷上杉方の、それぞれ重要な戦略拠点であった。

都幾川の対岸から見た菅谷城。渡河点を押さえる占地だったことがわかる

 ゆえに鉢形・河越の中間点で、かつ渡河点に当たる菅谷(須賀谷原)が戦場となったのだ。であるなら、両度の合戦に際して、どちらかの軍が菅谷の地に城なり陣なりを構えたと見るのが自然だ。というか、使わなかったと考える方が無理がある。

 それどころか、河越も鉢形も、山内上杉氏と扇谷上杉が滅んだのち戦国末期に至るまで、ずっと北武蔵随一の要衝であり続けた。だとしたら菅谷城は、戦国後期の北条氏時代まで使われた、と考える方が妥当だろう。(つづく)

菅谷城対岸あたりから西方を望む。画面中央の低い丘は小倉城。この一帯には縄張の巧みな城が異常な密度で分布している

[参考図書]戦国時代の関東地方の様子を知りたい方は、拙著 『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をご一読下さい。普通の歴史書ではなかなか取り上げられない東国武将たちの知略を尽くした戦いと人物像を知ることができます。