写真/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

将門の乱の引き金を引いた人物

 埼玉県の鴻巣市に箕田(みだ)城という城跡がある。といっても、100メートル四方ほどの範囲を、空堀と土塁で四角く囲んだだけの地味な城だから、よほど城好きの方でなければ、あまり面白い場所とは思えないかもしれない。

 箕田城は、またの名を「源経基館」ともいう。いや、むしろそちらの呼び名の方が通りがよいだろう。この城を紹介した案内板やパンフ、たいがいの本には「源経基館」の名で採り上げられているからだ。

教育委員会が道路沿いに立てた説明板には「伝源経基館跡」とある

 源経基は清和天皇の孫で、彼の代に臣籍に下って源姓を名乗るようになった。要するに、清和源氏一族の祖先にあたる人というわけだ。経基は、武蔵の介に任じられて、武蔵権守(ごんのかみ)の興世王(おきよおう)とともに現地に赴任した際、足立郡司の武芝(たけしば)という人と対立した。

城内は木立が茂っている。画面奥に土塁が見えるのがわかるだろうか

 そして、武芝が平将門に泣きついたために、将門と興世王・経基の武力抗争となり、戦力的にかなわないと見た経基は都に帰って、朝廷に将門の謀叛を訴え出た。これが、939年(天慶2)のことだから、『光る君へ』より一時代前の話である。本当はもう少し複雑で紆余曲折があるのだが、ザックリいうなら源経基とは、将門の乱(承平・天慶の乱)の引き金を引いた人物、と思えばよい。

内側から見た箕田城の土塁

 ……と説明してくると、将門の乱に関わる城跡なら訪れてみたい、という方もいるだろう。箕田城跡には、「六孫王経基城址」と大書された立派な石碑も立っている。大正4年に地元の人たちがお金を出し合って建てた碑で、碑銘は河野広中の揮毫になるものだ。

 ところが、この源経基の館跡という話が、少々問題なのだ。

 江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』という地誌をひもといてみよう。足立郡箕田村の条に八幡社の項があって、「社辺に屋敷跡と云う所あり」と出てくる。説明を読んでみると「六孫王経基の陣所とも頼義の陣所なりとも云う、又箕田武蔵守源仕が居所なりとも称せり」と書いてある。あれ?経基の館とは断定できないわけか。

東側の空堀(左手が城内)。堀が浅く感じられるが、長い年月をへて埋没が進んでいるためだ

 さらに読んでみると「(意訳)経基・頼義の陣所といっても確たる拠り所はない、この人たちは武蔵国司に任じられた人たちだが、八幡社の近くだけをその跡とするのは誤りだろう、このあたり一帯のどこかに館があったとしかいえない」という意味のことが書いてある。『新編武蔵風土記稿』は経基の館とは認めがたい、と考証しているのだ。

北側の空堀はよく見るとコーナー部分が屈曲している。画面奥は鴻巣高校のグラウンド

 実は、箕田の城跡で以前に堀の一部を発掘調査しているが、平安中期に遡る遺物は出土していない。調査報告書も周辺の遺跡との比較検討を行いながら、経基の館に当てはめるのは無理だろう、と判断している。考えてみれば、よほどの巨大構築物でもないかぎり、平安時代の土塁や堀がそのまま残っている、というのも不自然な話だ。

 はっきりいって、箕田の城跡を源経基に結びつけられる根拠は、実際には存在しないのである。「だったらいいなあ」レベルの話が、いつの間にか「伝承」になり、定説化していったのであろう。この城は、「箕田城(伝源経基館)」と呼ぶべきなのだ。

荒川の堤防上から見た箕田城。手前の草地は水田の跡で、城が台地の縁に築かれていたことがわかる

 もう少し視野を広げて考えてみよう。箕田城から荒川を隔てて西に7キロほどの場所には、武蔵松山城がある。松山城は、戦国時代に争奪戦が繰りひろげられた北武蔵の要衝で、箕田城との間には荒川の氾濫原と水田地帯が広がるのみだ。箕田城は、松山城をめぐる軍事情勢の中で、荒川の渡河点を意識して築かれた城ではなかったか。

 一見地味ではあるが、土塁も空堀も大変よく残っている箕田城。城にまつわる伝説と謎に思いを馳せながら、ゆっくり散策してみるのも、また一興というべきか。

[参考図書] 実は首都圏は戦国の城の宝庫だった! 身近な城跡を歩きながら、土の城の見方が身につく拙著『首都圏発 戦国の城の歩き方』(KKベストセラーズ)。ご興味のある方はぜひご一読を。