小田原城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

街の人から愛される城

 前稿(東京近郊の「問題な城跡」を歩く(12)小田原城(前編))では、「関東を代表する名城」といわれる小田原城の問題点を指摘した。ただし、筆者は別に小田原城なんて訪れるに値しない城だ、とけなしているわけではない。訪れる人のほとんどが、この城の本当の見どころをスルーしてしまって、コンクリ天守と惣構伝説だけで安易に「名城」と呼んでしまうことが、悲しいのである。

ほとんどの人はコンクリ天守を見ると満足して帰ってしまう。展示施設としては充実しているのだが……

 そこで以下に、筆者なりに小田原城の見どころを紹介みたい。

 まず、本丸の西側に、関東大震災で崩壊した石垣が、崩壊した状態のまま残っている。これは、「よくぞ残ってくれた」という感じで、歴史的遺産としても貴重だ。よく見ると、算木積みの形態を保ったままずり落ちている箇所もあって、城好きが実際に目にすれば、間違いなくテンションが上がるだろう。

本丸西側に残る崩壊した石垣。震災遺構という意味でも貴重だ

 また、天守台の東端にも崩壊した石垣の残欠が認められる。藩政時代の絵図を見るとこちら側にも石段が描かれていて、石段を上がると天守台中段の犬走を通って、反対側の石段から天守に入るようになっている。この構造がわかると、天守の正面に大きく張り出した石落としの意味が、ストンと腑に落ちる。

天守台東端に残る崩壊石垣の一部。石段のように見える箇所もある

 お次は、天守の背面だ。ここは現在、遊園地になっていてミニ列車の線路が走っているが、よく見ると巨大な土の堀切なのである。堀切の外側にある高台に登ると、さらに外側にもう一本堀切があって、巨大な二重堀切だったことがわかる。この二重堀切は、北条氏時代の遺構をそのまま近世城郭に利用しているのだろう。

天守背後の大堀切。ほとんどの人は空堀とは気付かずに通り過ぎてゆく

 さらに外側の堀切は、そのまま本丸の西側に回り込んで横堀となっている。本丸から報徳神社に行くときに、この巨大な堀を見ることができるのだが、ほとんどの人は堀と気付かずに通りすぎてしまう。

本丸と報徳神社(小峯曲輪)との間に残る空堀。本物の城の遺構なのだが…

 空堀を堪能したら、城の裏手から本物の線路(東海道線)が走る切り割りを渡って、背後の丘に行ってみよう。北条時代の八幡山古郭東曲輪の一角が、整備されて小さな公園になっている。ここからの城の眺めは格別だ。しかも、近世小田原城の占地と縄張の関係がよくわかるポイントでもある。

 もともと小田原城は、箱根山塊の裾野が足柄平野に溶け込むところに占地しているから、城の背後は箱根山塊に向かってずるずると高くなってゆく。これは、防禦上不利な地形だ。

八幡山古郭東曲輪から見た天守。大堀切に直接面して建っている様子がよくわかる

 そこで、本丸背後の二重堀切に直接面する位置にあえて天守を置くことで、天守を強化火点としているのだ。本丸の背後に迫った敵に天守から猛射を浴びせて撃退しよう、という算段で、福山城と同じ発想だ。

 福山藩水野家10万石、小田原藩も5〜11万石というところが興味深い。城の背後がずるずる高くなってゆく占地上の弱点を、10万石前後の動員兵力で克服する算段として、「天守を強化火点として撃ちまくる」という解決策を選んでいるわけである。

小田原駅から城へ行く途中の市街地の中に近世三ノ丸の土塁がひっそりと残っている

 最後にもう一つ、筆者が好ましく思うのは、この街の人たちの小田原城に対する愛情だ。筆者が初めてこの城を訪れた1980年頃には、本丸は動物園となっていて、猿や孔雀ばかりか象までいた。高度経済成長期には、城をそうした行楽地とした方が喜ばれたのだが、やはり史跡にはふさわしくないとなって、動物園は撤去された。けれども小田原の人たちは、動物を無碍に追い出すようなことはしなかった。動物たちが天寿を全うするのを待って、少しずつ檻を撤去していったのだ。

 こんなふうに小田原城は、街の人たちに愛されながら、ゆっくりと丁寧に整備されていっている。だから、訪れる度に少しずつ、城らしい魅力を増している。名城ではないとしても、繰り返し訪れる価値のある城だと思う。

現在の本丸。かつては多くの動物舎が並んでいた