小田原城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

問題だらけの「名城」

 小田原城の名を知らない人はあるまい。全国の主要な城を紹介する企画では、必ず「関東地方を代表する名城」として採り上げられるから、訪れる観光客も多いし、城好き・歴史好き界隈での人気も高い。でも、筆者にいわせれば、問題だらけの城なのである。

 筆者の見るところ小田原城の主な問題点は①天守、②遺構の残存度、③そもそも名城か? の3点に集約できる。以下、具体的に説明してゆこう。

小田原城のコンクリ復興天守

①天守の問題

 現在、小田原城に建っている天守は、1960年(昭和35)に鉄筋コンクリートで復興されたものだが、その形状に問題がある。小田原城天守については数種類の木製雛形が伝わっており、現在のコンクリ天守はそれらの雛形を参考に設計されているのだが、明らかに違う箇所がいくつかある。

 まず、木製雛形がいずれも三重三階なのに対して、現コンクリ天守は三重四階となっている。一階だった初重を二階建てとし高さをかせぎ、最上階には本来なかった高欄・廻り縁も付加されている。天守に観光施設・展望台の役割を担わせるための改変であることはわかるが、結果としてどうにもビルっぽい外観になってしまっている。コンクリ再建ではあっても、天守にはやはり城らしい品格みたいなものがほしい、と思ってしまう。

1997年(平成9)に史料に基づいて綿密に考証・復元された銅門

②遺構残存度に関する問題

 小田原城には、本来の建物はまったく残っていない。天守だけでなく、現在建っている馬屋門・銅(あかがね)門・常磐木門なども、すべて復元である。そればかりか、石垣もほとんど残っていないのだ。

復元された銅門は現在でも銅色を失っていない

 というのも、小田原城の石垣は関東大震災でほとんどが崩壊しまったからである。天守台の石垣は、コンクリ天守を建設するために積み直されたものだが、古絵図と比べると平面形などもかなり違ってい。本丸の正面も石垣が失われてしまったために、城らしい景観を損なっているし、二ノ丸以下の石垣も堀の護岸でしかない。

 平成になって復元された銅門周辺の石垣は、さすがに「らしく」積まれているものの、「城本来の遺構」という意味での見所には乏しい、といわざるをえない。

二ノ丸の堀端から見た小田原城。手前の復興櫓は考証的には難がある

③そもそも名城か問題

 規模・縄張・占地といった観点からするならば、小田原城にはしいて「堅城」と評すべき要素は乏しい。近世城郭としては「並」の部類で、相撲の番付にたとえるなら、十両とはいわないまでも、せいぜい前頭十五枚目くらいなものである。

 にもかかわらず、ほとんどの城本で「関東を代表する名城」みたいな位置づけを得ているのは、江戸城を除けば関東には他に見映えのする城がないからだ。読者層という意味では大票田である関東の「名城」を、どこかしら紹介しないと、商業企画としては成り立たないから、小田原城を「名城」扱いしているだけなのである。

御鐘台に残る惣構の巨大な空堀。豊臣軍も攻略をためらった強力な防禦ラインだが……

 そこで持ち出されるのが「豊臣秀吉の大軍をも釘付けにした惣構(そうがまえ)」、というロジックだ。けれども、その惣構は戦国時代(北条氏時代)のものであって、近世の小田原城とは別物ではないか。

 惣構は藩政時代にも保存されていたとはいえ、もともと北条氏の対豊臣戦略の中で築かれたものであって、5~11万石程度という近世小田原藩の兵力では、とうてい有効に機能させられない。徳川幕府の関東防衛戦略を考えても、惣構が威力を発揮できるほどの大兵力を小田原城に集結させる必然性は考えにくい。

 戦国時代の惣構がスゴイから近世の小田原城も名城だ、というのは、今の海上自衛隊に戦艦「大和」や空母「赤城」があったら最強だ、みたいな話なのである。

小田原駅の近くにある北条氏政・氏照の墓所。飲食店街の中にひっそりと眠っている