(歴史ライター:西股 総生)
南部家を突き動かした思いとは
盛岡の駅を降りて北上川に架かる橋を渡り、通りを東に10分ばかり歩くと、前方に石垣が見えてくる。城の好きな人、なかんずく石垣の好きな人なら、ここで「おおっ」と声が出るにちがいない。南部家の築いた北辺の石垣は、予想を超えて立派なのである。
東北の近世城郭で名城といったら、まずは会津鶴ヶ城。次いで弘前城・山形城・白河小峰城あたりを指折るべきだろうが、この盛岡城、またの名を不来方(こずかた)城もなかなかどうして、石垣のボリューム感では、弘前・山形・白河小峰の三城をはるかに凌ぐ。
南部家は陸奥国の北東部、いまの岩手県北部から青森県東部にかけてを領した外様大名だ。何ぶんの寒冷地ゆえ米の取れ高は少なく、表向きは10万石とされたものの、新田開発等によって実収は増加。江戸後期には20万石に改訂されて、国持大名に準ずる待遇を得るに至っている。なかなかの勢力なのである。
その南部家が、不来方の地に本格的な近世城郭の構築を始めたのは慶長2年(1597)、2代利直の時である。築城にあたっては、近江から穴太衆の招聘に努めるなど労を惜しまず、3代重直の寛永10年(1663)頃までかかって内城部は総石垣造りの堅城とした。
こんなふうにしてできた盛岡城だから、石垣を見て歩くと慶長年間とおぼしき技法から寛永頃の技法、さらには近年修復された箇所など混在していて興味深い。ただ、年代的に古い箇所も新しい箇所も、押し並べて技術的水準が高い。筆者も、石垣を見て歩きながら、幾度となく立ち止まって「ほう!」と声を上げた。
おまけに、本丸を中心に中ノ丸・北ノ丸・淡路丸や帯曲輪といった内城部は、虎口を徹底的に枡形化し、塁線の随所に折を加えるなど、完全に織豊系近世城郭の縄張なのである。どうやら南部家は、見た目に豪壮なだけでなく、軍事技術という意味においても最先端の城を築いてやる、という意気込みを元に築城を行ったようだ。
彼らをかくも突き動かした思いとは、何であったのか。まず思い浮かぶのは、田舎大名として馬鹿にされたくない、という意地である。とくに境を接する弘前藩津軽家や、仙台藩伊達家には、対抗意識も強かったのだろう。
ただ、どうやらそれだけではないらしい。というのも、近世南部家の藩祖となった南部信直という人は、よくいえばヤリ手、まあ梟雄タイプで、かなり強引な方法で豊臣秀吉から南部家当主のお墨付きをもらった人物だった。当然、天下統一がなったのちも、南部家中には埋み火が残ることになる。
そうした中で信直の跡を継いだ利直には、本拠を無類の堅城とする必要があった。自分は中央政権から認められた当主なのだから、こんな上方風の最新式堅城を築くことができるのですよ、だから謀叛なんか起こしても無駄ですよ、というわけだ。
しかも、お隣の津軽為信も信直に負けないヤリ手だったから、この二人はのし上がる過程で仇敵同士になってしまう。なので、弘前城も「津軽人の意地」みたいなものを強く感じさせる名城となっているが、南部側は南部側で「津軽の城には絶対負けたくない」という思いが強かったのだろう。
もう一つ、これは城内を歩いていると実感できることだが、不来方の城地はもともと花崗岩の丘なのである。つまり、石切場にそのまま築城できるわけだ。上方の城造りを見ていた利直は、不来方が花崗岩の丘であることに気付いたとき、ほくそ笑んだにちがいない。「これで津軽より伊達より立派な城を築けるぞ」と。
そんなこんなを想像させてくれる盛岡城、歩けば歩くほど楽しい城なのである。