松江城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

上質のプレートランチのような城

 日本の城を知るのに、最初に訪れるのにもっともふさわしいは、実は松江城ではないかと思う。なぜなら、まず天守が現存している。城そのもののサイズ感も、大きすぎず小さすぎず中庸を得ていて、かといって決して凡庸ではない。縄張は実戦的で石垣もなかなか立派だし、濠幅もたっぷりしている。

 復元された櫓や塀も良い感じに古色を帯びていて、「お城」らしい景観に事欠かないし、城下町も風情があって、食べ物も美味しい(松江はとりわけ和菓子の美味しい街である)。およそ日本の城の魅力がひととおり、ほどよいボリュームで揃った、上質のプレートランチみたいな城なのだ。

二ノ丸南側の高石垣。2基の櫓が復元され城らしい景観を見せている
城の裏手の堀端には武家屋敷の景観も残る

 松江城を築いたのは、堀尾吉晴という人だ。堀尾吉晴は山内一豊らと同様、豊臣秀吉のの子飼い武将だったが、関ヶ原合戦では東軍に属し、出雲・隠岐24万石に封じられて松江築城に着手した。

 城が完成したのは吉晴の没後、2代目の忠晴(吉晴の孫)の時であるが、基本設計は吉晴の手になるもの。さすがは秀吉子飼いの武将らしく、主要部をコンパクトにまとめながら、要所をカッチリと固めた実戦的な縄張となっている。

大手口に立つ堀尾吉晴の像。築城を指揮する姿である

 だが、その忠晴は、継嗣に恵まれずに堀尾氏は改易となる。替わって入った京極氏も続かず、寛永15年(1638)に松平直政が20万石で入って代々続いた。直政は福井城主・結城秀康の3男で、秀康改易後の結城松平家の処遇として大名に列せられていたものだ。

 松江松平家代々の藩主の中で著名人といえば、18世紀後半に藩主を務めた第10代の治郷であろう。いや、治郷という実名より、不昧(ふまい)の号の方が通りがよいだろう。藩政の立て直しに意を用いる一方で文化人、わけても茶人として名をなした人物で、おかげで、松江は今でも全国屈指の和菓子の美味しい街となっている。 

雨の日の松江城天守はしっとりと黒い

 さて、松江城の見どころといったら、やはり国宝の現存天守であろう。望楼型の古風な造りながら、白壁と黒壁が絶妙にマッチした、シックなデザインである。むしろ、「わびた」と表現した方が、よいかもしれない。

 二重目と三重目の間、張り出し部分の中央に、釣り鐘型の華頭窓を配するセンスも秀逸だ。この天守は唐破風を一切用いず、全体を直線でまとめているから、真ん中にぽっと入った華頭窓が、アクセントとして効いているのである。

正面中央に配された華頭窓がよいアクセントになっている。狭間が並んでいることに注意

 この天守、実は松平時代に入って改修されたことがわかっている。どうやら堀尾時代は、もっと破風の多い華やかなデザインだったらしい。結果として松江城天守は、改修によって高取・上野(あがの)あたりの茶碗を思わせるような、シックなデザインになっている。こういうデザインを「武骨」とか、「古風」なんて言葉でまとめてしまう人は、城をもっとよく見た方がよい。

夕陽を浴びると下見板が鳶色に映える

 この天守で面白いのは、左右ほぼ対称のデザインになっていることだ。厳密にいうと、窓や狭間のレイアウトが一部非対称なのだが、全体のデザインは左右対称だ。

 日本の城郭建築は左右非対称、いわゆるアシンメトリーの美を追求したデザインが基本だ。とくに、桃山~江戸初期に建てられた望楼型の天守はそうである。にもかかわらず、堀尾時代に遡る望楼型天守が左右対称デザインとなったのは、なぜだろう。(つづく)

真っ正面から見た天守。ほぼ左右対称である