(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
官職において頼朝を超えた実朝
建保6年(1218)3月、実朝は左近衛大将に任じられました。この時点で、実朝はすでに正二位の位階を得ています。亡き頼朝は正二位・右近衛大将でしたから、位階としては頼朝に並んでいます。
ただし、律令官制では右より左の方が格上。右大臣より左大臣、右衛門尉より左衛門尉の方が上となります。たとえて言うなら、同じ営業部でも第1部長の方が第2部長より格上、みたいなものです。
もちろん、右近衛大将より左近衛大将の方が格上ですから、官職において実朝は頼朝を超えたことになります。これと併行して、上洛した政子が従三位(じゅさんみ)の位を授けられています。
平安時代の貴族社会では、三位以上が政策決定に参与し、全国から吸い上げた富を山分けする立場のトップセレブ。すなわち、荘園領主=私領である荘園のオーナーや、知行国主=国のオーナーとなることのできる特権階級です。
政子は、もとはといえば伊豆の弱小武士の娘で、官位には縁の無い身分でした。ところが、正二位・右近衛大将に登った頼朝の妻として、二人の将軍(頼家・実朝)の母となった結果、トップセレブの仲間入りを果たしたのです。ドラマの前回最後のところで、京から帰ってきた政子が、「従三位!」とドヤ顔をしていたのも当然なのです。
しかも、政子のように出家した女性が三位以上の位を与えられるのは、当時としてはかなり異例です。正二位・左近衛大将となった実朝の実母ですから、相応の身分を認めようというわけですが、実朝の任官と併せて考えれば、朝廷としてはかなりのサービスぶりといってよいでしょう。
この時期の朝廷は、鎌倉といたずらに対立するよりは、官位官職をサービスしながらうまくやって行こう、という方向に動いていたようです。「北風政策」よりは「太陽政策」の方が得策、みたいな判断です。朝廷側の実権を握っていた後鳥羽上皇としては、適当に手なずけることでコントロール下に置こう、という方が本音だったのでしょう。対する鎌倉側では、このまま「太陽政策」を受けいれてよいものか、という警戒感も出てきます。
そんな中で同年の12月、実朝は右大臣に任じられました。今回の任官は、これまでとは決定的に違いました。右近衛大将や左近衛大将は立派な肩書きではありますが、実務をほとんど伴いません。近衛府という組織が形骸化して、朝廷の儀式に際しての儀仗隊に過ぎなくなっていたからです。しかも、実際に儀仗隊の指揮をとるのは近衛少将なので、大将は名誉職のようなものです。だから朝廷も、気前よく与えることができたのです。
しかし、右大臣ともなるとワケが違います。右大臣は、朝廷の最高意志決定会議のメンバーだからです。当然、会議にも出席する義務があります。仮に、実朝が右大臣を返上するにしても、上洛して朝廷のお歴々に挨拶するのが筋でしょう。
いずれにせよ実朝は、上洛しなければならない立場に置かれたわけです。これは、後鳥羽上皇から踏み絵を突きつけられたことを意味しました。上洛して右大臣としての務めを果たすのか、それとも返上するのか。それは取りもなおさず、朝廷と幕府、天皇と鎌倉殿の関係をどう整理するのか、ということでもあったからです。
※実朝暗殺の背後関係についての筆者の推理については、拙著『鎌倉草創-東国武士たちの革命戦争』(ワンパブリッシング)をご参照下さい! Kindle版も好評です。