伊豆の蛭が小島に立つ頼朝・政子像 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

政子が「尼将軍」と名乗った史実はない

 一般に、北条政子は「尼将軍」として知られています。『鎌倉殿の13人』の中でも、小池栄子さん演ずる政子が、少々ドヤ顔気味に「尼将軍」を名乗っていましたね。ただし、史実では政子がそう名乗っていたわけでありません。

 そもそも、征夷大将軍は朝廷が任ずる武官ですから、尼の政子が任官するはずはないのです。政子が幕府内に君臨する姿を、人々が「まるで尼将軍だね」と評したにすぎません。ではなぜ、政子は「尼将軍」と呼ばれるほどの存在感をもったのでしょう?

鎌倉の寿福寺裏にある政子の墓所 撮影/西股 総生

 前回、鎌倉幕府が鎌倉殿を必要とした理由を説明しました。この時期の幕府には、三寅という鎌倉殿がいるにはいましたが、いかんせんまだ幼児。鎌倉殿としての務めを果たせないのは、誰の目にも明らかです。

 となれば、誰か代行者が必要となります。そこで、三寅の後見人という名目で鎌倉殿の務めを代行したのが政子だった、というわけです。

 前回の補足になりますが、政治を「まつりごと」というように、この時代の政治には仏事・神事が不可欠でした。鎌倉殿には、鎌倉における仏事・神事の主催者としての務めもあったわけですが、三寅が幼少の間は政子がこの務めをこなすことになります。

 また、この頃の政子は、従二位という高い位を得ていました。従二位は、男子であれば右大臣に任じられるほどの身分です。右近衛大将頼朝の妻にして、左近衛中将頼家と右大臣実朝の母だからこそ、政子はこの高位を得られたのであって、地方出身の武士には絶対にたどり着けない身分でした。実際、執権の義時ですら従四位下が限界でした。

伊豆の北條寺にある北条義時夫妻の墓。向って右が義時、左が妻の墓 写真/フォトライブラリー

 従二位の身分があれば、頼朝の遺した荘園領主・知行国主といった資産を受け継ぐ資格が充分にあります。その意味でも、政子は三寅の後見人(代行者)たりえたのです。幕府が朝廷と交渉する場合でも、表向きは従四位下の義時より、従二位の政子を立てた方が都合がよかったでしょう。

 こんなふうに、朝廷と交渉で表に立ったり、仏事・神事の主催者としての務めを果たしているうちに、政子が鎌倉殿のような立場になっていった、というのが実際の所だったようです。御家人たちも、政子なら鎌倉殿の代行者として受けいれやすかったのでしょう。

 ここが、後鳥羽上皇にとって最大の誤算ポイントとなりました。後鳥羽上皇は、実朝の死によって幕府は求心力を失っていると踏んで、幕府の打倒(ないしは弱体化)をもくろんだのです。けれども、幕府は求心力を失っていませんでした。政子という、事実上の鎌倉殿が君臨していたからです。

後鳥羽上皇

 政子は、亡き頼朝の妻にして頼家・実朝の母です。頼家・実朝の死の真相など、ほとんどの御家人たちは知らされていません。でも、彼らが何らかの陰謀によって、悲劇的な最期を遂げたことは、多くの御家人が感じ取っていたことです。

 夫と二人の息子、加えて娘や孫を次々とうしなってなお、三寅の後見人として健気にふるまう政子は、御家人たちから見れば充分にカリスマでした。官位官職などを、常に上から与える立場だった後鳥羽上皇には、こうしたボトムアップ的な武士たちの結集原理が見えていなかったようです。

※12月29日に大河ドラマの総括として49回、50回を掲載します。

 

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