(歴史ライター:西股 総生)
名称も「菅谷館」ではなく「古城蹟」だった?
菅谷館(菅谷城)が、戦国時代まで使われたであろうことは、わかった。でも、この城の原形が畠山重忠の館だったというのは、それはそれでいいんじゃないの、と思う方もいるだろう。
でも、重忠が二俣川の合戦で滅んだのは、1205年(元久2)のことである。「菅谷館」があったとしても、その時点で廃絶したはずだし、重忠滅亡から戦国時代までは500年ほどもあるのだ。
その間、ずっと廃墟のままで、あるいは畠かなんかになっていたところを、戦国時代になってから掘り返して、出てきたプランを利用して主郭として造り直す、なんてことがありえるだろうか。あるいは、畠山一族が滅んだ後も、誰かがずっと館なり屋敷なりとして使い続けて戦国時代に至ったのだろうか。
江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』という地誌を見ると、この城は、比企郡菅谷村の「古城蹟」として登場する。そして、長享年間に太田氏の陣営だった場所という考証が記され、また、かつて重忠の居城跡だったが、のちに岩松氏が畠山氏の名跡を継いだ際に居を構えた、とも記されている。
太田氏は扇谷上杉氏の家臣だから、『新編武蔵風土記稿』の記事は第一義的には、須賀谷原・高見原合戦に関係した陣ないし城、としているわけだ。名称も「菅谷館」ではなく単に「古城蹟」である。つまり戦国時代の城がメインで、副次的に畠山重忠まで遡るらしい、とされていたのが、いつの間にか畠山重忠の館がメインに入れ替わったわけだ。
実は、これまでに城内で行われた断片的な発掘調査では、鎌倉時代に遡る遺構・遺物は見つかっていない。重忠ほどの有力御家人の本拠であれば、周囲に郎党たちの屋敷やら集落があるはずだから、発掘すれば何かしら引っかかりそうなものであるのだが。
もっと問題なのは、「畠山重忠の館」と見なす根拠である。畠山重忠館説の根拠となっているのは、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の記事だ。同書の元久2年(1205)6月21日条、すなわち重忠が二俣川で討ち取られるくだりを記した条に、「去る19日、重忠は菅谷館を出て、いまこの沢(二俣川)に着いた」という記述がある(抄訳)。
もともと重忠の本拠だった畠山荘は、菅谷から12キロほど北西の現深谷市川本町だから、普通に考えれば本宅はそちらだろう。また、『吾妻鏡』の用例を調べてみると、「館」の語を用いるのは、源氏一族や守護・国司クラスの御家人に限られている。重忠は有名人だし有力者ではあるが、源氏一族でも守護・国司でもない。身分上はあくまで一般御家人だから、『吾妻鏡』が重忠の本宅なり別邸なりを「館」と記したとは考えにくい。
一方、当時の言葉遣いでは、行軍の途中に一時的に宿営する場所を「旅館」「宿館」と呼ぶことが多い。だとしたら、『吾妻鏡』のいう「菅谷館」とは、畠山荘の本宅から鎌倉へ向かう途中で、重忠が宿泊した「旅館」「宿館」を指しているのではないか。
それに、仮に菅谷城の場所に重忠の本宅または別邸があったのだとしても、いま見る土塁や堀が戦国時代に城として築かれたものであるなら、「菅谷城」と呼ぶのが普通ではないか。だって、大阪城のある場所がもともと石山本願寺だったからといって、「石山本願寺城」とは呼びませんよね。駿府城の大元は今川氏の駿府館だからといって、「駿府館」の名称が正しい、とはならないでしょう?
にもかかわらず、この城が「菅谷館」と呼び続けられているのは、その名前で国の史跡に指定されてしまっている、というだけの理由からだ。結果、みな右へならえで「菅谷館」と呼んでいるのである。
そうして、「お城ブーム」とやらによって「菅谷館」の呼び名が大量に再生産されて、菅谷城の本当の姿が見えなくなってしまうのだったら、そんな「お城ブーム」なんて来なくてもよかったのではないだろうか。
[参考図書]城についての伝承に様々な問題が含まれることに関心のある方は、拙著『城取りの軍事学』ぜひ、ご一読下さい(角川ソフィア文庫/電子版は学研プラス)。