京都御所 写真/hana_sanpo_michi/イメージマート
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。
*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』所載分)に書き下ろし2篇を加えた書籍『続 平安貴族列伝』が発売中です。
華麗な系譜の一族であるが…
次はあまり名の知られていない陰陽師を取りあげよう。賀茂保遠(かものやすとお)という人である。彼の名がはじめて古記録に登場するのは、『村上天皇御記(むらかみてんのうぎょき)』の応和(おうわ)四年(=康保(こうほう)元年〈九六四〉)七月七日条(『改元宸記(かいげんしんき)』『西宮記(さいきゅうき)』による)である。
この日、改元に際して次の年号を文章博士が勘申する年号勘申という儀式と、陰陽師が御読経の日時を勘申する日時勘申という儀式が行なわれた。まずは記事を挙げてみよう。
左大臣(藤原実頼〈ふじわらのさねより〉)が蔵人(源〈みなもとの〉)学(まなぶ)を介して、文章博士(菅原〈すがわらの〉)文時(ふみとき)と(藤原)後生(のちお)が勘申した年号の字の勘文を奏上させた。明後日に行なうよう命じさせた。・・・・・・民部卿藤原朝臣(在衡〈ありひら〉)が申させて云ったことには、「御読経の日時を勘申しようと思い、陰陽寮を召したのですが、ただ陰陽属(賀茂)保遠だけが参りました。先々は、その道に長じた官人が二人で勘文を進上しました。これを如何しましょう」と。命じて云ったことには、「早く保遠に勘申させよ」と。藤原朝臣が日時の勘文〈「今月九日か十日」と云うことだ。〉を奏上させた。
前半が年号勘申、後半が日時勘申に関する記事である。まず年号勘申では、菅原文時(道真〈みちざね〉の孫)と藤原後生という高名な学者が、それぞれ中国の古典から年号に相応しい二字を選んで、その典拠となる故事と共に勘文を作成し(一人が二つの年号の候補を選ぶこともあった)、それを左大臣の藤原実頼に提出し、実頼はそれを蔵人を介して村上天皇に奏上したというものである。村上天皇は年号定を明後日に行なうよう命じている。
今回は、天皇の代替わりや天変や祥瑞によって改元するのではなく、翌年が甲子革令に当たっているというので、年号を改めることになったのである。六月四日以来、甲子年が革令に当たるのかどうか、そして改元をしなければならないかを、様々な分野の博士に調べさせて、論争を行なわせている。
七月十日に改元定が行なわれたが、革令の当否に関して諸説が決していないというので、改元詔書には詳細を載せないこととした。また、菅原文時が選んだ年号・故中納言大江維時(おおえのこれとき)と参議大江朝綱(あさつな)朝臣が以前に勘申した年号が村上天皇に届いたのだが、「今回、択び申した文字は、頗る不快である。そこでまた古い勘文を給う。その吉いものを定めるように」ということで、重ねて定め申させることとなった。
大江朝臣が上呈した嘉保(かほう)と康保、及び後生が前年に上呈した乾徳(けんとく)の間で、天皇の仰せに随うということになり、村上天皇は康保の字を用いるよう命じさせた。この時期は天皇が年号の選定の最終決定を行なっていたのである。
なお、詔書を作成することになったが、作成したのは大内記の高階成忠(たかしなのなりただ)。後に中関白家の外戚となり、「高二位」と称される人物である。ただ、村上天皇は、「事の趣意は、未だ尽くしていない。そこで草案を改めさせよ」と命じ、詔書を書き直させている。
というように、朝廷を挙げた大騒動で新年号が決まったのであるが、諸道の学者たちにとっては、自分の選んだ年号が使われて歴史に名を残すとなると、やる気を出して頑張ったものと思われる。
一方、後半の方は、春と秋に毎年宮中で行なう季御読経という法会を始める日時、結願する日時など、場合によってはどの経典を読むか、どの寺のどの僧を招請するか、布施は何をどれくらい下賜するかとかも決めなければならなかった。
法会に呼ばれそうな延暦寺・興福寺・東大寺のような大寺の僧にとっては、これは重大な出来事だったであろうが(僧としての格が上がるし、朝廷や有力貴族との縁ができるし、終わったら莫大な布施がもらえる)、たいていの貴族にとっては、まあどうでもいい儀式で、いつから始めてもたいしたことはなかったことであろう。なお、この年の季御読経が八月十日から始まっているが、この御読経の日時を選ぶ儀式だったのであろう。
この日、大納言で民部卿を兼ねている藤原在衡が、御読経日時勘申の上卿を務めたのであるが、日時を勘申しようとして陰陽寮の官人を召したものの、長官はおろか、次官や判官も参って来ず、わずかに第四等官である陰陽属の賀茂保遠だけが参ってきた。きっと上役から、「面倒だからお前が行ってこい」とか言われて、仕方なくこの仕事をするためにやって来たのであろう。
在衡は村上天皇に、「これまでは陰陽道に長じた官人が二人で勘文を進上しました(が、こんなのしかやって来ません)。これを如何しましょう」と問い合わせた。村上天皇は、「(仕方がないから)早く保遠に勘申させよ」と命じ、在衡が、保遠の勘申した「今月九日か十日」という日時勘文を村上天皇に奏上させている。このうち、十日に季御読経が始まっていることは、先に述べた。
この保遠というのは、ほとんど名前が知られていないが、有名な賀茂忠行(ただゆき)の、おそらく二男である。忠行の一男はこれも有名な保憲(やすのり)で、その子の光栄(みつよし)の子孫が、暦道の家を継いでいくことになる。
保遠の弟としては、これも有名な保胤(やすたね)がいる。平安京の様子を活写した『池亭記(ちていき)』を著わしたほか、源信(げんしん)とともに浄土信仰の中心人物となり、出家して寂心(じゃくしん)と称した。藤原道長(みちなが)に戒を授けてもいる。
その弟の保章(やすあき)はそれほど有名ではないが、孫に有名な歌人の相模(さがみ)がいる。なお、保胤と保章は姓の字を、賀茂朝臣から替えて、慶滋朝臣と称している。慶滋は当初はこれを音読して「かも」と訓んだのであろうが、後世、訓読して「よししげ」と発音されている。
というように華麗な系譜の一族であるが、保遠はまことにぱっとしない。『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によると、子孫も明らかでない。誰も行きたがらない仕事に、上司に命じられてのこのこと日時を勘申するために参上する姿が思い浮かぶ。
となると、まったくダメな陰陽師だったかというと、そうでもない。『尊卑分脈』には、彼は「権陰陽博士」「同(陰陽)助」「主計助」「正五下」とあるから、陰陽師としてはそれなりに高い地位に就いたのである。若い時のこのような真面目な勤務態度が評価されたとすれば、それはそれで喜ばしいことである。
後の『小右記(しょうゆうき)』には、保遠もそれなりに登場する。寛和(かんな)元年(九八五)三月十日条には、
花山(かざん)天皇がおっしゃって云ったことには、「石清水臨時祭使(源)時中(ときなか)が、急に触穢を申してきた。また、その穢は、右大臣の家に到った。きっと東宮(懐仁〈やすひと〉親王)に及んだのではないか。もしかしたら祭日を延引すべきであろうか」ということだ。奏上して云ったことには、「もし特に穢が有るのならば、延引すべきでしょう。また、その疑いが有るのならば、御卜を行なうべきでしょうか」と。おっしゃって云ったことには、「善いことである。早く陰陽師を遣わし召すように」ということだ。今日、院に犬の死穢が有った。その疑いは、また宮中に及んだ。(慶滋)保遠が占って云ったことには、「すでに不浄が有った。祭を行なわれるのは、吉くないことである」ということだ。そこで来たる二十六日に改め定めた。
とあって、祭使の触穢によって石清水臨時祭を延期すべきかどうかを陰陽師に占わせよとの花山天皇の命を承け、蔵人頭の藤原実資(さねすけ)に召されて、「祭を行なわれるのは、吉くないことである」という結論を奏上し、それによって臨時祭は延期された。
次に永延(えいえん)元年(九八七)二月七日条には、中宮の藤原遵子(じゅんし)が、実資の二条第から四条宮に還御する際に、保遠が反閇という出御の時などに邪気を閉じこめて安泰を祈願する陰陽道の秘法を奉仕したことが記されている。
さらに永延二年(九八八)十一月十九日条にも、賀茂臨時祭について、永平(ながひら)親王が死去したことと、延期されるべきであるという夢想を、祭使である藤原高遠(たかとお)が見たということで、(慶滋)保遠と(安倍)吉平(よしひら)に命じて、延引するかどうかを占わせた。「延引されよ」ということで、来月に行なわれることになった。
永平親王の死去については、同じ永延二年十一月二十三日条に、一条(いちじょう)天皇が錫紵という喪服を着す時剋、また除かれる時剋を、実資が保遠を蔵人所に召して撰び申させている。
このような功績もあってか、永祚元年(九八九)四月五日に、保遠が叙位に預かっている。ただし実資は、「この中で、(慶滋)保遠朝臣に加級が有った。未だその理由を知らない」と不審がっている。
最後に保遠が史料に登場するのは、やはり『小右記』の永祚元年六月二十五日条で、太政大臣藤原頼忠の病悩に際して、下鴨社で起こった怪異(大樹が倒れ、多数の星が樹の中から出て、南方に去ったというもの)について、保遠に占わせたという記事である。この怪異が何だったのかはよくわからないが、頼忠は翌二十六日に死去している。
次いで(慶滋)保遠朝臣を召した。膝突に進んだ。命じて云ったことには、「怪異の文を神祇官に下給した。これは賀茂下社の樹の怪異である。占い申すように」と。保遠朝臣は仰せを承って、座に復した。神祇官の亀筮と陰陽寮の占文を、各々覧筥に納めて、膝突に進み、奉った〈神祇官が先ず進上した。陰陽寮は長い時間の後、これを奉った。〉。丞相(源雅信〈まさのぶ〉)はこの勘文を、蔵人(源)俊賢(としかた)を介して奏聞させた〈覧筥に納めず、そのまま奏上させたのである。〉。
保遠はこれ以降、史料から姿を消す。最初に史料に現われてから、二十四年。陰陽属であったときに三十歳前後としても、このころには五十代に達していて、当時の平均寿命を超えていたことであろう。
もっぱら『小右記』にしか登場しない保遠であるが、かといって特に実資に尊重されていたというわけではなく、『権記(ごんき)』や『御堂関白記(みどうかんぱくきけ)』はまだ書き始められていなかっただけのことである(保遠が『村上天皇御記』に登場したとき、藤原行成(ゆきなり)はまだ生まれておらず、道長は三歳であった)。おそらくは実直な陰陽師として、保遠は朝廷や貴族たちから尊重されていたことであろう。華やかな一族の他の人たちとは違って、まことに地味な保遠ではあるが、精一杯陰陽道に精進して、それなりの地位に至ったというのは、考えてみればあっぱれなことではないだろうか。






