貴船神社(奥社) 写真/倉本 一宏(以下同)
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(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。

*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』所載分​)に書き下ろし2篇を加えた書籍『続 平安貴族列伝』が発売中です。

仏事・神事・陰陽道など様々な手法が用いられた祈雨

 こちらはなんとも情けない記事を(しかも天皇に)記録されたご両人である。『村上天皇御記(むらかみてんのうぎょき)』応和(おうわ)三年(九六三)七月十五日条(『祈雨記(きうき)』『西宮記(さいきゅうき)』による)は、諸社祈雨の奉幣使の発遣を伝えている。

この日、伊勢太神宮(いせだいじんぐう)・石清水(いわしみず)・賀茂(かも)・松尾(まつのお)・平野(ひらの)・稲荷(いなり)・春日(かすが)・大原野(おおはらの)・大和(おおやまと)・石上(いそのかみ)・大神(おおみわ)・広瀬(ひろせ)・竜田(たつた)・住吉(すみよし)・丹生(にう)・貴布禰(きぶね)〈以上の二社は、黒馬を加えて奉献する。〉・木島(このしま)・乙訓(おとくに)・水主(みぬし)・火雷(ほのいかずち)・枚岡(ひらおか)・恩智(おんじ)・広田(ひろた)・生田(いくた)・長田(ながた)・坐摩(いかすり)・垂水(たるみ)・竜穴(りゅうけつ)社に奉幣して、雨を祈った。民部卿藤原朝臣(在衡[ありひら])が蔵人(源)輔成(すけなり)を介して、申させたことには、「春日使右衛門佐(かすがしえもんのすけ)(藤原)正輔(まさすけ)と丹生使神琴師大中臣高枝(にうしかんごとしおおなかとみのたかえ)が申したことには、『すぐには騎る物がありません。御馬を給わりたいと思います』と」と。命じたことには、「申請によるように」と。……

 平安時代は旱魃(かんばつ)の年が多くて、当然、農業に深刻な被害をもたらす。祈雨や逆に止雨は年穀(ねんこく)祈願と結びついた重要行事で、仏事・神事・陰陽道(おんみょうどう)その他の様々な手法を用いて行なわれた。祈雨法としては、大極殿御読経(だいごくでんみどきょう)、神泉苑請雨経法(しんせんえんしょううきょうほう)、七大寺(しちだいじ)僧による東大寺(とうだいじ)読経、竜穴(りゅうけつ)読経、丹生(にう)・貴布禰(きぶね)奉馬、祭主祈禱(さいしゅきとう)、北山(きたやま)十二谷または神泉苑での五竜祭(ごりゅうさい)、祟(たた)りをなす諸社への奉幣(ほうべい)、山陵(さんりょう)奉幣、軽犯者の赦免(しゃめん)などがあった(倉本一宏『平安貴族の日記を読む事典』)。

 雨神として特に名高いのは大和(やまと)国吉野(よしの)郡の丹生川上社(にうかわかみしゃ)と山城(やましろ)国愛宕(おたぎ)郡の貴布禰社で、祈雨・止雨を祈る奉幣奉馬が行なわれた。祈雨には黒馬、止雨には白馬を奉献(ほうけん)した。

 しかし、いつも思うのだが、貴布禰社に馬を牽(ひ)いて遣わされる使者(主に蔵人)はまだいいとして(それでも結構な距離と山道だが)、吉野の山奥の丹生川上社まで馬を牽いて、しかも炎干や大雨の中で遣わされる使者(これも主に蔵人)は、いかに大変であったことか。

「木の根道」

 私は貴布禰社(現貴船神社の奥社)は大好きで、特に貴船神社と鞍馬寺を結ぶ山道(「木の根道」)は素晴しいのだが、一方、丹生川上社は吉野の奥にあるのだろうという認識しかなかった。ところがある時、金峯山に登ろうということで麓の洞川温泉までバスで向かっていたのだが、結構な山道を進んだところで、途中に丹生口というバス停があって、その奥に丹生川上神社下社があるので驚いた。こんな山深いところに下社があるのなら、上社はどんな所にあるのだろうと、恐ろしく思ったものである。

丹生川上神社(下社)

 祈雨・止雨を祈る奉幣使が派遣されるということは、炎干か長雨が続いている期間ということになり、そんな中であんな所まで馬を牽いて行かねばならない使者の労苦は、想像しただけで気の毒になってくる。

 なお、この応和三年の祈雨奉幣使は、丹生・貴布禰社だけでは足りず、二十八もの神社に奉幣使を発遣している。丹生・貴布禰社までに列挙されている十六社は、よく奉幣使が派遣されているのであるが、その後に列挙されている十二社は、めったに登場しない神社である。それだけこの年の炎干が深刻であった証左であろう。

 ところでこれを読まれた方は、二十八社のうち、どれだけ行かれたことがあるだろうか。全部行ったことがあるという方は、是非ご一報いただきたい。

 さて、この記事は、春日使に選ばれた右衛門佐藤原正輔と丹生使に選ばれた神琴師大中臣高枝が、騎る物がないので、馬寮の御馬を給わりたいと申し出ているものである。村上天皇は、「申請によるように」と、これを承認している。

 検非違使かとも思われる藤原正輔はさておき、神琴師というのは、「平安時代、神祇官にあって、神琴生に琴を教授した者」とのことである(『日本国語大辞典』)。そういう人なら、馬を持っていないのも無理はないとも思えるが、検非違使ともあろう者が、馬がないとは何たることかと怒りたくもなってくる。

 ただ、これは、奈良まで乗っていくほどの馬がないという意味か、あるいは馬は持っているのだが、この際に恩賞としてもう一疋、天皇から賜わりたいという意味なのかもしれない。帰京後に、天皇から賜わった馬を乗り廻したら、さぞかし自慢だったことであろう。

 後年になると、伊勢神宮への使者に選ばれた王が、藤原道長(みちなが)に馬を要求するようになる。

 この記事は、そういった慣習の走りなのかもしれないのである。

 それにしても、琴の先生は、無事にあんな山中まで行って帰ってこられたのであろうか。

『続 平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)