伝小野道風生誕地(愛知県春日井市)撮影/倉本 一宏
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(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。

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「能書の絶妙なり。羲之の再生」

 たまには有名人も取り上げようか。とはいえ、こちらも中級官人である。後世、三蹟の一人に数えられる小野道風の意外なエピソードである。

 道風は参議篁の孫で、大宰大弐葛絃の子、参議好古の弟として、寛平六年(八九四)に生まれた。母は尾張国の女という伝えもあるが不明。正四位下内蔵権頭として、康保三年(九六六)十二月二十七日、七十三歳で死去した。

 若年より能書の聞え高く、特に草書は王羲之の字形を端正にし、点画を秀潤温雅にして和様の書を創始した。延長四年(九二六)に興福寺僧寛建が入唐する際に、醍醐天皇が道風に書かせた行草法帖各一巻を持って赴かせ、唐に流布させた(『醍醐天皇御記』延長四年五月二十一日条〈『扶桑略記』による〉)。醍醐としても、本場の中国に道風の書を自慢したかったのであろう。

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 また、延長六年(九二八)には清涼殿南廂の白壁に漢以来の賢君名臣の徳行を書いたり(『醍醐天皇御記』延長六年六月二十一日条〈『日本紀略』による〉)、天徳三年(九五九)の「天徳詩合」の清書をして「能書の絶妙なり。羲之の再生」と賞讃されたりと(『日本紀略』天徳三年八月十六日条)、各方面に筆をふるった。

 後世になっても、たとえば三蹟の一人である藤原行成は、道風に書法を授けられ、様々な事を言談した夢を見たほどで(『権記』長保五年〈一〇〇三〉十一月二十五日条)、道風は大いに尊重された。

 なお、現存する道風の真蹟と認められるものは、「円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書」(東京国立博物館蔵、国宝)・「屏風土代」(御物)・「玉泉帖」(御物)・「三体白氏詩巻」(正木美術館蔵、国宝)ぐらいに過ぎない。『江談抄』『古今著聞集』などには、道風に関わる説話が種々伝えられている(『国史大辞典』による。藤木邦彦氏執筆)。

 閑話休題、その道風の意外なエピソードを紹介しよう。それが見られるのは、右大臣藤原師輔の記録した『九暦』である。師輔は延喜八年(九〇八)に生まれた。承平五年(九三五)に二十八歳で参議、天慶元年(九三八)に七人を超えて三十一歳で権中納言、天慶五年(九四二)に三十五歳で大納言、天暦元年(九四七)に四十歳で右大臣に上った。

 つねに異母兄の実頼の次席にあったが、天暦四年(九五〇)、村上天皇の女御となっていた女の安子の産んだ憲平親王(後の冷泉天皇)が立太子して、師輔は外戚としての地位を固め、後世、子孫(九条流)は摂関の地位を独占することとなった。

 しかし、師輔自身は外孫の即位を見ることなく、天徳四年(九六〇)に五十三歳で死去した。藤原経邦の女の盛子との間に伊尹・兼通・兼家・安子などの子があり、九条流の祖とされた。

『九暦』は原形のままでは存在せず、抄録本(『九暦抄』)、別記の部類(『九条殿記』)、父忠平の教命(貴人や先達の教え)を筆録した『貞信公教命』(『九暦記』)などが現存している。『西宮記』『北山抄』『小右記』他に逸文が多く引載されており、それらも総合すると、現存のものは延長八年(九三〇)から天徳四年に至っている。

 逸文を含むので単純に計測はできないが、『九暦抄』が二二八条、『九条殿記』が一一二条、『九暦記』が一七条、『九暦断簡』が二一条、逸文が三三七条、合わせて七一五条は、訓読文で一七万五九九四字である(一条あたり平均二四六字、倉本一宏『平安時代の男の日記』)。

 ここで取り上げるのは、皇朝十二銭のうち、天徳二年(九五八)に最後に発行された乾元大宝の銭貨文の字をめぐる道風のやりとりである。

 乾元大宝は、天徳二年に銭貨文を延喜通宝から乾元大宝に改め、新銭文には阿保懐之の字様を用いたとある(『日本紀略』)。周防国の鋳銭司(山口市鋳銭司)で鋳造されたが、いつまで続けられたかは明らかでない。主な出土例としては、大津市伝崇福寺弥勒堂跡(約百二十枚)、大阪市東淀川区の淀川流路内(二百三枚)、京都市東山区深草西車塚(五十余枚)などがあるが、出土個所は少なく、畿内近国に集まっている。

 甲賀宜政の分析によると、鉛含有量が約七五%に及ぶ鉛銭同様のものもあり、形も小さく、品質の悪いものが多かったらしい。この銭の流通は、十世紀後半には停止したと思われる(『国史大辞典』による。栄原永遠男氏執筆)。

乾元大宝 貨幣博物館所蔵

 これによると、銭文は阿保懐之なる人物が書いたとある。この人にも興味が湧くのであるが、ここは道風について語ることとする。阿保懐之が書くことになる前に、実は二人の人物が書くことを命じられていたのである。

『九暦』天徳二年四月八日条には、次のようなやりとりがあったことが記録されている。

因幡介長連広兼と図書允阿保懐之を召して、銭の文を書かせた。奏聞したことには、「現在の能書は小野道風朝臣と藤原文正です。道風は目暗(目が暗い)ということを称し、文正は触穢です。そこでこの両人を定めて奏聞します」と。懐之が勝っているということになった。

 本来ならば銭文は、すでに能書の名をほしいままにしていた道風か、さもなければ藤原文正の名前が挙がったのであるが、この年には六十五歳となっていた道風は、眼病(老人性白内障とされる)を患っていて、細かい字を書くことができないと称した。さらに道風に次ぐ能書であった大内記の文正も触穢であったため(これは本当かどうかはわからない)、やむなく図書允の阿保懐之と因幡介の長連広兼が書くことになったというものである。参議の大江惟時が村上天皇に奏聞し、懐之の書が採用されたという顛末である。

 となると、さすがの道風も年齢には勝てず、この大役を務めることができなくなっていたのかと、同情したくなるところであるが、しかし同じ『九暦』の翌天徳三年(九五九)正月十日条には、次のような記事がある。

道風に障子を書かせた。禄を下給した。

 これは師輔が、自邸の九条殿か、あるいは内裏の障子に字を書かせ、禄を下給したという記事である。銭の小さな字は書けないが、障子に大きな字を書くのならまだまだできるということなのであろうか。まさか豪華な禄をもらえるなら書いてもいいが、流通するかどうかもわからない銭の字なんか書けるかということではあるまい(それはそれで立派なプロ意識だとは思うのだが)。

 ともあれ、こうして道風は八年後の康保三年(九六六)の年末まで生き続けた。行年は七十三歳であった。内蔵権頭までしか任官されず、父祖や兄弟ほどには出世できなかった生涯であったが、その名声は永遠に残ることとなったのである。

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)