(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、高橋文室麻呂です。
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嵯峨太上天皇から直接教えられる
高橋(たかはし)氏の官人も初登場である。『日本三代実録』巻八の貞観六年(八六四)二月二日己未条は、文室麻呂(ふんやまろ)の卒伝を載せている。
従五位下行越後介高橋朝臣文室麻呂が卒去した。文室麻呂は、左京の人である。本姓は膳(かしわで)臣、またの姓は錦部(にしごり)である。信濃国の人である。五代の祖である膳臣金持(かねもち)が信濃国の人の錦部氏の女を娶って男子の倭(やまと)を産んだ。ここにおいて倭は元の氏族を継がず、母の姓を自分の姓とした。そこで信濃国の人となった。倭の男子である美造(みつくり)は病死し、五男の備前掾正六位上彦公(ひこぎみ)は、『五経』を読んだので、嵯峨院に伺候した。
天長(てんちょう)五年、錦部を改めて高橋朝臣を賜り、左京に貫附された。膳と高橋とは同祖である。そこで彦公の願いに随って、これを賜った。彦公は、これは文室麻呂の父である。文室麻呂は、年九歳で嵯峨(さが)太上天皇に仕えた。天皇は自ら琴の弾奏を教えた。その技は日に日に長じ、他の教習していた者は並ぶ者がいなかった。そこで文室麻呂に号を賜って琴師と云った。十六歳ではじめて元服を加え、すぐに蔵人となった。太上天皇が崩御した後、仁明(にんみょう)天皇が召して蔵人とした。次いで常陸大掾に拝任し、右兵衛大尉に遷任された。勅が有って琴の弾奏を諱(いみな)〈光孝(こうこう)天皇〉親王や本康(もとやす)親王に教えた。
文徳(もんとく)天皇の斉衡(さいこう)四年、外従五位下を授けられ、貞観(じょうがん)元年十一月、従五位下を授けられ、次侍従となった。後に越後介に拝任されたが、任地に赴かなかった。卒去した時、行年は四十九歳。文室麻呂が琴を能くする名声は、当時、冠たるものがあった。かつて文徳天皇および清和(せいわ)太上天皇は、召して殿上に近侍させて師とし、琴の弾奏を学んだ。四代の天皇に仕えて、頗る寵幸を蒙った。小道とはいっても、見るべきものが有るというのは、ほとんどこれに近いのであろうか。
高橋氏は、天武十二年(六八三)に膳臣を改めて高橋朝臣としたという氏族である(『高橋氏文』)。高橋は高階(たかはし)に通じ、高い階を持った高殿の意であろう。膳氏は古く大王の食膳を担当した他、将軍や使節として朝鮮半島に派遣されたり、厩戸(うまやど)王子の妃を出したりした有力氏族である。藤ノ木古墳の被葬者の候補にも擬せられている。
律令制下では内膳司の長官である奉膳に任じられ、また御食国である志摩守に任じられることが多かった。
文室麻呂は信濃に地盤を持った膳氏の出身とあるが、五代の祖が膳金持というのは、計算が合わず、彦公が美造の五男だとしても、この「系譜」の信憑性にはいささか疑問が残る。
文室麻呂が生まれたのは、弘仁七年(八一六)。すでに彦公の代に平安京の左京に貫附されていた。九歳で嵯峨太上天皇に仕え、直接嵯峨から琴の弾奏を教えられた。技量はあっという間に上達し、並ぶ者がいなくなったというので、「琴師」という号を与えられた。
琴師というのは、本来は雅楽寮において琴を教授する職員のことである。よほど才能に恵まれていたのであろう。
天長八年(八三一)に十六歳で元服し、すぐに蔵人となった。嵯峨が崩御した後、仁明天皇が続いて蔵人とした。次いで常陸大掾や右兵衛大尉に遷任された。また、琴を時康(ときやす)親王(後の光孝天皇)や仁明第五皇子の本康親王に教えた。ただし、当時は仁明―文徳―清和と続く直系継承の時代であり、本康はもちろん、時康もこの時点では、即位する可能性は考えられなかった。
文室麻呂は天安元年(八五七)に四十二歳で外従五位下、貞観元年(八五九)に四十四歳で従五位下を授けられ、次侍従となった。次侍従というのは、四位・五位の中で年功のある官人が選抜され、侍従と同じく天皇の御前に伺候して雑事を掌った職である。その門地からは、異数の出世と言えよう。
貞観三年(八六一)に四十六歳で越後介に任じられたが、任地に赴かなかい遥任であった。卒去した時は四十九歳であった。なお、文室麻呂の子女の名は伝わっていない。五位以上に上ることはなかったのであろう。
卒伝では、もっぱらその琴に関する名声を特筆している。文徳および清和の師として、琴の弾奏を教授したとある。ただ、卒伝は「小道とはいっても、見るべきものが有る」と言っているのは、いまだ音楽というものの地位がそれほど高くなかったことの表われであろうか。やがて宇多(うだ)朝以降は天皇の演奏する楽器は琴となるが、それは光孝に皇統が交替した後のことである(円融〈えんゆう〉朝以降はもっぱら横笛が奏され、中世にまでつながっていく)。