藤原有年「讃岐国司解藤原有年申文」東京国立博物館蔵

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、藤原良仁​を紹介します。

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「美しく、風神のよう」な容姿

 藤原北家の嫡流に近い立場ながら、嫡流からほんの少し外れただけの官人を取り上げよう。『日本三代実録』巻四の貞観(じょうがん)二年(八六〇)八月五日壬午条は、藤原良仁(よしひと)の卒伝を載せている。

中宮大夫従四位下藤原朝臣良仁が卒去した。良仁は、贈太政大臣正一位冬嗣朝臣の第七子である。母は島田氏で、従五位下清田(きよた)の姉である。良仁は容姿が美しく、風神のようであった。若くして大学に学び、読書に疲れを忘れた。文徳(もんとく)天皇が東宮にいた時、承和(じょうわ)十年に召されて東宮蔵人となった。すぐに主蔵正に任じられ、春宮大進に遷任された。承和十三年に従五位下を授けられた。春宮亮に転任し、従五位上を授けられた。

嘉祥(かしょう)三年四月、文徳天皇が踐祚した初年、正五位上に加叙され、中宮亮・右兵衛権佐に遷任された。後に右馬頭に拝任された。中宮亮は元のとおりであった。嘉祥四年に従四位下を授けられ、右近衛中将・大舍人頭・木工頭・左京大夫と累遷した。遷転すること数官であったが、なお中宮亮を兼任していた。天安(てんあん)元年、越前権守に左遷されたが、兵部大輔に遷任された。未だ幾くもなく、中宮大夫に遷任された。

良仁は淡雅で、心を仏教に帰し、門地は高華であって、甚だ高潔であった。服飾の美しさは、最も鮮明を究めた。好むところは、ただ馬で、朝廷を退出した後、常に愛玩した。性は至孝で、たちまち母の死に遭い、哀啼哭泣し、血を吐いて気絶した。時を経て蘇り、悲慟に堪えられなかった。服喪中に病んで卒去した。時に行年四十二歳。

 藤原良仁は、平城(へいぜい)太上天皇の変(薬子[くすこ]の変)を鎮圧し、左大臣として政権首班の座にあった冬嗣の七男であった。とはいえ、嫡妻であり、尚侍として後宮に勢力を築いた藤原美都子(みつこ)が産んだ長男長良(ながら)・二男良房(よしふさ)・五男良相(よしみ)といった兄たちに比べると、高位高官に上ることはなかった。これは生母が島田村作(むらつくり)の女の名前も伝わっていない女性であったことによるものであろう。

 なお、冬嗣には他に百済王仁貞(くだらのこにきしにんじょう)が産んだ三男良方(よしかた)、安倍男笠(おがさ)が産んだ四男良輔(よしすけ)、六男良門(よしかど)、大庭(おおにわ)王の女が産んだ八男良世(よしよ)がいるが、さすがに皇親から生まれた良世が左大臣に上っている以外は、良方が大蔵大輔、良輔が雅楽助、良門が中宮大夫と、冬嗣の子としては、まことにぱっとしない地位で終わった。良仁もこれらと同じ運命をたどったことになる。

 兄たちが順調に出世して国家中枢に関わり、やがて政権を担うようになるのを、良仁はどのような気持ちで見ていたことであろうか。良仁が卒去した貞観二年、すでに良房は太政大臣、良相は右大臣、良房の養子の基経(もとつね)は蔵人頭に補されていた。

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 良仁は、弘仁十年(八一九)の生まれ。母の父である島田村作という人は、史料にまったく登場しないが、尾張の地方豪族という。良仁の母の弟である清田(きよた)の孫に、学者や文人として有名な忠臣(ただおみ)と良臣(よしおみ)がいる。忠臣は菅原道真(みちざね)の師で、女の宣来子(のぶきこ)は道真の嫡妻となっている。

 それはさておき、良仁は容姿が美しく、風神のようであったとあるが、「風神のよう」というのは、どんな風貌だったのであろう。若くして大学に学び、読書に疲れを忘れたとあるから、早いうちに公卿としての出世を諦め、学問の道に進んだのである。

 後に文徳天皇となる道康親王の東宮蔵人となり、主蔵正、春宮大進と昇任して、承和十年(八四三)に二十五歳で従五位下を授けられた。冬嗣の子としては、至極当然の叙爵であるが、官職の方は、春宮亮・中宮亮・右兵衛権佐・右馬頭と、地味な歩みを続けた。仁寿元年(八五一)に三十三歳で従四位下を授けられ、右近衛中将・大舍人頭・木工頭・左京大夫と累遷した。この間、中宮亮として続けて良房の女である明子に仕えた。

 天安元年(八五七)に突然、越前権守に左遷されたが、翌天安二年(八五八)、兵部大輔に遷任され、中宮大夫に上った。このまま出世するかと思われたであろうが、貞観二年(八六〇)に母の死に遭うや、哭泣し、血を吐いて気絶したとある。やがて蘇っても、悲慟に堪えられなかったというので、よほどこの卑母を敬慕していたのであろう。そして服喪中に病み、四十二歳で卒去した。こんなのを読むと、自分も老母にもしものことがあったらどうなるだろうかと、心配になってくる。

 良仁は性格が淡雅で、心を仏教に帰依し、門地は高貴であっても、はなはだ高潔であったという。ただ、服飾の美しさは最も鮮明を究めたというのは、着る物にはこだわっていたのであろうか。ただ馬だけを好み、朝廷を退出した後、常に愛玩したという。これにはけっこう金がかかったのではないかと、他人事ながら気をもんでしまう。

 なお、良仁には藤原浜主の女が嫡妻としており、浜主は房前(ふささき)の孫で、右大臣藤原園人(そのひと)の長男なのであるが、安芸守で終わっており、まことに栄華とは縁遠い人たちであった。この妻は有実(ありさね)・恒実(つねさね)と二人の男子を産んでいるが、有実が参議に上っている。余談であるが、有実の女は大納言で醍醐(だいご)天皇の外戚の藤原定国(さだくに)と結婚し、有年(ありとし)を産んでいる。有年が貞観(じょうがん)九年(八六七)に「讃岐国戸籍帳」の褾紙見返しに書いた「讃岐国司解藤原有年申文」は、現存する最古の半平仮名(草仮名)の事例である(東京国立博物館所蔵)。

 

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)