但馬国府故地 写真/倉本 一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、藤原式家の春津を紹介します。

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左大臣・緒嗣の嫡男

 北家の覇権が確立したこの時代にあっても、式家の官人たちはその地位を低下させながら活躍していた。当時は貴族の家に生まれたら、仕事は官人しかないのであり、おのれの置かれた条件の下で生きていかざるを得なかったのである。

『日本三代実録』巻三の貞観(じょうがん)元年(八五九)七月十三日丙寅条は、左大臣緒嗣(おつぐ)の二男である春津(はるつ)の卒伝を載せている。緒嗣は正二位であったが、春津は従四位上に過ぎなかったため、卒伝とされたのである。

従四位上行備前守藤原朝臣春津が卒去した。春津は、左大臣正二位緒嗣朝臣の第二子である。春津は風貌が美麗で、心がけも寛やかで雅びであった。天長(てんちょう)の初年、抜擢されて左近衛将監となった。天長七年、皇太后宮大進に遷任された。翌年、従五位下を授けられ、近江権介となった。数箇月で従五位上を授けられた。承和(じょうわ)元年、遷任して備中権守となった。久しく侍従となった。承和九年、正五位下に進み、すぐに右馬頭に拝任された。承和十年春、父左大臣が上表して致仕した。その第三表は、春津を使いとして、内裏に進み、奉上した。勅して云ったことには、「左丞相藤原朝臣公は先朝の元勲であって、朕(仁明[にんみょう]天皇)の旧徳である。近ごろ功が成り名を遂げ、老いて私第に帰った。朕は几杖の礼でこれを優遇した。敢えて公(緒嗣)に背かないためである。右馬頭春津は、これは公の孝子である。特に従四位下を授け、眼前に慰めよう」と。嘉祥(かしょう)三年、母の憂いに当たって職を解いた。未だ幾くもなく情を奪ってこれを起こし、右兵衛督に拝任した。仁寿(にんじゅ)の初年、刑部卿に遷任されて但馬守を兼ね、次いで従四位上を加えられた。斉衡(さいこう)四年、但馬守となり、備前守に遷任された。共に任地に赴かなかった。春津は、家の勢威は貴顕であって、生まれながらに富貴であった。居処や家庭は、甚だ華麗であった。性格は欲が少なく、財利を貪ることがなかった。ただ馬を好んで、時々これを観た。私第では閑暇を養って、出仕しようとしなかった。帝は戯れに左右の者に語って云ったことには、「春津は、これは南山の黒豹である」と。卒去した時、行年は五十二歳。

 春津は、緒嗣の二男である。兄の家緒(いえお)が左兵衛督の官で三十四歳で死去したため、春津が嫡男となった。他の兄弟としては、生母不明の本緒(もとお)が大和守、忠宗(ただむね)が備前介で終わっているため、春津がこの式家の中心となったことは間違いない。

 緒嗣については、すでに語っておいた。桓武(かんむ)天皇の権臣であった式家の百川(ももかわ)の嫡男として、また淳和(じゅんな)生母である旅子(たびこ)の異母兄として、左大臣に上った。

 春津は大同三年(八〇八)生まれ。平城(へいぜい)天皇の時代であった。父が左大臣で、本人も風貌が美麗、心がけも寛やかで雅びであったとあるから、何の苦労もなく出世することと、周囲の者も思ったことであろう。

 そしてその期待どおり、十代で左近将監、天長七年(八三〇)に二十三歳で皇太后橘嘉智子(かちこ)の皇太后宮大進、翌天長八年(八三一)に二十四歳で従五位下に叙爵され、近江権介に任じられた。天長十年(八三三)には二十六歳で従五位上に昇叙されるなど、まずは順調なスタートを切った。兄の家緒はすでに天長九年(八三二)に死去しているので、春津が式家の嫡男ということになった。

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 その後も、承和五年(八三八)に三十一歳で侍従、承和九年(八四二)に三十五歳で正五位下右馬頭と、このまま出生街道を駆け上るのかと思われたことであろう。しかし、この年の七月に嵯峨太上天皇が死去すると、春宮坊の官人が恒貞皇太子を奉じて東国に向かおうとしているという密告によって承和の変が起こり、中納言藤原吉野や春宮坊の式家の官人五人が流罪に処されるなど、式家は大きな打撃を受けた。一方、この政変を主導した良房など北家がますます専権を手に入れた。

 このような情勢のなか、病がちであった緒嗣は、承和十年(八四三)に七十歳に達したのを機に上表して致仕した。第三度の上表は受け容れられたが、その使者となったのは春雄であった。仁明天皇は緒嗣の致仕を認める代わりに、春津を緒嗣の孝子であるとして、特に従四位下を授けた。

 この時、春津は三十六歳、これから式家の総帥としてばりばり働いたかというと、そうはならなかった。七年後の嘉祥三年(八五〇)、母の喪に遭った春津は官を辞しているが、すぐに右兵衛督に拝任された。この年の三月に仁明天皇が死去し、文徳天皇が即位しているが、この一連の措置がどちらの天皇によってなされたかは、定かではない。

 翌仁寿元年(八五一)に四十四歳で刑部卿に任じられたが、すでに北家の良房のはるか下風に立っていた。その後、斉衡四年(八五七)に但馬守、貞観元年(八五九)に備前守に任じられたが、どちらも任地に赴かなかった。一貫して不熱心な勤務態度であったと言えよう。

 そして貞観元年、春津は五十二歳で卒去した。何ともやる気のない、一貫した人生であったと評すべきである。しかし、貴族といっても、全員が出世を目指して精勤していたわけではない。このように不熱心な勤務態度を続けて一生を終えた人たちも、大勢いたのであろう。

 いやむしろ、歴史の表舞台に顔を出すのは、権力の中枢を目指すごく一部の人たちであって、ほとんどはこのような人々だったのかもしれない。この時代なら、まだ位階にともなう給与は支給されていたはずであるから、一定の高位にさえ上れば、あとは仕事は一部の勤勉な人たちに任せて、ぶらぶらと過ごしていた人々がほとんどだったのかもしれない。どうせ頑張ったって政権は北家に独占されつつあり、父親の世代のように天皇家とミウチ関係を結べるわけでもないのである。

 卒伝は、家の勢威は貴顕であって、生まれながらに富貴であり、居処や家庭は、甚だ華麗であった。性格は欲が少なく、財利を貪ることもなかったが、ただ馬を好んで、これを観た。私第では閑暇を養って(ぶらぶらと過ごして)、出仕しようとしなかったと総括している。

 帝は戯れに左右の者に語って、「春津は南山の黒豹である」と評した。これは前漢の劉向(りゅうこう)が著わした『列女伝(れつじょでん)』の逸話「南山に黒豹がいて、霧雨すること七日、食を下さないのは何ぞ」「黒豹は毛を惜しんで穢れを憎む」によるものとされる。『尊卑分脈』には、「日本第一の富人・名人である」とある(何の名人なんだろう)。なお、緒嗣が建立していた観音寺(現京都府綴喜郡田辺町普賢寺か)を完成させたともある。

 当然のこと、春津の子孫も出世することはできず(こんな親を見て育ったら、それはそうであろう)、八男の枝良(えだよし)が参議に上った以外は、常氏・常仁・常数・在数は官位不明、つまり五位以上には上っていない。ちなみに、枝良の子が、参議に上って天慶(てんぎょう)三年(九四〇)に平将門(まさかど)追討のために征東大将軍、天慶四年(九四一)に藤原純友追討のために征西大将軍に補されたものの、何の役にも立たなかった忠文(ただふみ)である。

 

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)