(歴史学者・倉本 一宏)
蘇我氏が改姓した氏族
かつて触れたところであるが(倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』中公新書)、『日本文徳天皇実録(もんとくてんのうじつろく)』巻六の斉衡(さいこう)元年(八五四)十二月甲寅条(三日)の石川長津(ながつ)の卒伝も印象深い。
この日、木工頭正五位下石川朝臣長津が木工寮の中で頓死した。月次祭および神今食などの神事は、所司に通例のとおりに奉祭させた。長津は、中納言正三位兼宮内卿豊成(とよなり)の孫で、正四位上武蔵守河主(かわぬし)の子である。弘仁十年三月に内舎人となった。弘仁十二年二月に右京大進となった。弘仁十三年六月に修理大進となり、閏九月に民部大丞となった。弘仁十四年正月に遷任して皇太后宮少進となった。四月に従五位下に叙され、五月に大和介となった。天長八年七月に木工助となった。天長九年正月に従五位上に叙された。承和十年三月に加賀介となった。嘉祥二年十一月に正五位下に叙された。仁寿二年二月に木工頭となった。卒去した時、行年は七十歳。長津は性質は工巧を能くし、恪勤を宗とした。故に頻りに工官を歴任した。遂にその寮の中で生を終えた。先祖が貯積した文書は数千巻で、一舎に秘蔵していた。かつて他人に貸すことはなかった。死んだ後、何処に灰滅(かいめつ)したかはわからない。
石川氏の官人を扱うのも、はじめてである。石川氏は、古代最強の豪族であった蘇我氏が天武朝の末年に改姓した氏族である。
一般的には、蘇我氏は大化改新の端緒となった皇極(こうぎょく)四年(六四五)の乙巳の変で滅亡したと考えられているが、決してそんなことはない。蘇我氏の氏上が飛鳥系本宗家の蝦夷(えみし)(および入鹿[いるか])ら、河内系蘇我氏の石川麻呂(いしかわまろ)に移動したに過ぎないのである。
石川麻呂家が大化五年(六四九)に滅亡した後も、その弟たちが陰に陽に七世紀の政治史の主役となった。連子(むらじこ)が斉明(さいめい)朝の大臣として何の咎もなく死去した一方、赤兄(あかえ)や果安(はたやす)が天武(てんむ)元年(六七二)の壬申の乱で大友(おおとも)王子方の率いる近江朝廷の重臣となったことで、天武朝では連子系のみが生き残ることとなった。
連子の子である安麻呂(やすまろ)たちは、天武朝末年に「蘇我」の名を捨て、河内の地名にちなむ「石川」を新たな氏の名として再出発した。
乙巳の変の後も、蘇我氏は多くの女性を大王家に后妃として入れており、持統(じとう)・文武(もんむ)・元明(げんめい)・元正(げんしょう)・長屋(ながや)王など、蘇我系の皇族は八世紀前半の天皇家嫡流を形成してきた。それは文武の嬪であった刀子娘(とねのいらつめ)が産んだとされる広成(ひろなり/広世[ひろよ])皇子や長屋王家が滅ぼされるまで続いた。
しかし、聖武や孝謙(こうけん/称徳[しょうとく])といった藤原氏系の皇族が皇位を嗣ぐようになると、石川氏の勢力も衰えていった。
そこで石川氏は、律令国家の実務官人である弁官を歴任することで、その地歩を固めようとしたのだが、奈良時代後半になると、その地位も藤原氏に圧されるようになった。
平安時代に入ると、石川氏はますますその地位を低下させ、わずかに五位程度で諸司の次官や下級官司の長官、地方の次官程度の官人しか出せなくなっていた。
延暦(えんりゃく)四年(七八五)に生まれたこの長津の生涯も、中下級貴族にふさわしい官歴であった。弘仁(こうにん)十年(八一九)に内舎人となって官人としての見習いを始めたが、その年にはすでに三十五歳に達していた。その後、弘仁十二年(八二一)に三十七歳で右京大進(右京職の第三等官)、翌弘仁十三年(八二二)に三十八歳で修理大進(修理職の第三等官)、次いで民部大丞(民部省の第三等官)、弘仁十四年(八二三)に三十九歳で皇太后宮少進(皇太后宮職の第三等官)、そして大和国の次官である大和介に任じられた。
ここからしばらく任官例が見えないが、それは弘仁十四年に従五位下に叙されたためであるかもしれない。五位となると貴族の仲間入りであるが、その高位にふさわしい高官に就けることは、ためらわれたのであろう。卑官ならば数々の官を歴任した長津であったが、高官には任じてもらえないとは、かつての蘇我氏を知る者としては、気の毒でならない。
長津が次の官に就いたのは、八年後の天長(てんちょう)八年(八三一)、四十七歳で木工助(木工寮てんちょうの第二等官)に任じられたときであった。実はこの職場が、長津にとってもっとも性に合った所であり、最期の場も木工寮だったのであった。
木工助をいつまで務めたのかは定かでないが、承和(じょうわ)十年(八四三)には五十九歳で加賀介に任じられ、おそらく任地に赴任したのであろう。そして九年後の仁寿(にんじゅ)二年(八五二) に六十八歳で木工頭に任じられた。工巧に秀で、真面目に精勤した長津としては、まさに天職を得た気分だったことであろう。
しかし、二年後の斉衡元年、七十歳で寮中で頓死してしまった。もしかしたら年甲斐もなく張り切りすぎた末の過労死の類だったのであろうか。
残念なのは、父祖以来、秘蔵してきた膨大な文書がすべて散逸してしまったということである。これも石川氏自体の没落を象徴的に表わすものであろう。
なお、元慶(がんぎよう)元年(八七七)、石川氏はふたたび姓を、しかもみずから望んで宗岳氏に改めた(『日本三代実録[にほんさんだいじつろく]』)。「宗岳」は、後世は訓で「ムネオカ」と訓(よ)むようになり、「宗岡」「宗丘」などの字も充てられるようになるが、当時は音で「ソガ」と訓んだはずであり(「慶滋」[後世の「ヨシシゲ」]を「カモ」と訓んだのと同様である)、石川氏は、古代の栄光の氏の名をふたたび称することになったのである。
実際には中下級氏族にまで地位を低下させていた石川氏が、はるかな過去の氏の名を称することによって、一体何を得ることができたのであろうか。過去の誇りの歴史を冠することによってのみ、氏としての存立基盤を求めようとしたこの氏族の姿に、藤原氏(しかも嫡流のみ)以外の古代氏族の悲喜劇が集約されていると言えよう。「古代氏族の終焉」は、かくも皮肉な末路を我々に曝(さら)してくれるのである。
しかも改姓後の宗岳氏は、ほとんど六国史に見えない。六国史は基本的に五位以上の官人しか登場しないので、宗岳氏が五位以上に上ることはほとんどなくなったのであろう。