(歴史学者・倉本一宏)
野心家の異母兄とは正反対?
今回は、前回に述べた藤原仲成(なかなり)の異母弟の縵麻呂(かずらまろ)である。あれほどの策謀家で野心家、権勢を誇ったものの、陰険で専横な振る舞いが多かった(と反対勢力に非難された)仲成の弟なのであるから、縵麻呂もさぞかし同じような人物であろうと思うと、さにあらず、『日本後紀』巻二十九の弘仁十二年(八二一)九月甲寅条(二十一日)は、次のように語る。
従四位下藤原朝臣縵麻呂が卒去した。贈太政大臣正一位種継(たねつぐ)の第二男である。生まれつき愚鈍で、事務能力がなく、大臣の子孫ということで、内外の官を歴任したが、名声を上げることはなかった。ただ酒色のみを好み、他のことに思いをいたすことはなかった。時に行年五十四歳。
あの種継の子で、仲成の弟に、よくもこのような人物がいたものだと驚くばかりである。一応、種継の二男ということで、延暦四年(七八五)に従五位下に叙されて貴族社会の仲間入りをし、翌延暦五年(七八六)に皇后宮大進、延暦七年(七八八)に相模介、延暦十年(七九一)に相模守、そして大判事と歴任しているのであるが、このあたりの執務成績がよろしくなかったらしい。
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生まれつき愚鈍な性質で、事務能力がなく、歴任した内外の諸官でも名声を得ることはできなかったという。その一方では、ただ酒色のみを好み、他事を顧みる事はなかったという。
とても他人とは思えない愛すべき人物にも見えてくるが、もしかすると、この無能ぶりは、敵対勢力の目を欺くための保身のための隠れ蓑であった可能性もある。父や大叔父たち、そして兄妹の仲成・薬子のように、権力の中枢に身を投じて、やがて一挙に奈落の底に突き落とされることを避けるために、無能を装って酒色に溺れる振りをする。これもまた、貴族の生き方の一類型なのかもしれない。
やがて縵麻呂は、延暦二十三年(八〇四)に豊前守、次いで右大舎人頭に任じられ、平城天皇の世となった大同三年(八〇八)に美濃守を兼ね、嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)に大舎人頭となった後、越後守に転出し、弘仁十二年(八二一)に散位(位階だけあって官職のない者)従四位下で卒去した。兄の仲成よりも十一年後まで生きたことになる。
歴史はこの縵麻呂について、ほとんど何も語ることはない。しかし、これはこれで、貴族としての生き方の一つなのである。歴史の表舞台に登場する人物は、権力を志向する例外的な人たちで、ほとんどの人物は、このような小心でやる気のない、無能な人々だったのであろう。
なお、縵麻呂の子は、貞成が従五位上相模権守で終わっており、城成は位階が伝わっていない。
一二〇〇年の時を超えて、この縵麻呂とこそ、酒を酌み交わしたいと思うのは、私だけであろうか。