(歴史学者・倉本一宏)
大変な「民間の噂」とは
次は『日本後紀』卷六の逸文で、延暦十六年(七九七)四月丙子条(二十一日)である。善珠(ぜんじゅ)という僧の卒伝が載せられている。
僧正(そうじょう)善珠が卒去した。行年七十五歳。皇太子安殿(あて)親王(後の平城(へいぜい)天皇)が善珠の肖像を描き、秋篠寺(あきしのでら)に安置されている。皇太子が病気の時、大般若経(だいはんにゃきょう)を読誦(どくじゅ)して、霊妙な効験(こうげん)をもたらし、抽賞して僧正に任じられた。法師は俗姓(ぞくせい)が安都宿禰(あとのすくね)で、京の人である。民間の噂によれば、「僧正玄昉(げんぼう)は太皇太后(たいこうたいごう)藤原宮子(みやこ)と密通し、善珠法師は実はこれは、その息子である」と云うことだ。善珠は師を求めて研鑽(けんさん)したが、遅鈍(ちどん)で学問を身につけることができなかった。しかし、はじめ唯識論(ゆいしきろん)を読み、反復すること無数にして、ついに三蔵(さんぞう)【経蔵(きょうぞう)・律蔵(りつぞう)・論蔵(ろんぞう)のことで、仏教典籍(てんせき)の総称】の奥深い教理(きょうり)を理解し、六宗【三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗】の奥深い教理を理解し、教理や学説に通暁するようになった。「大器晩成」とは、考えるとこのような人のことを言うのであろう。
さっと読み過ごすと、偉い坊さんがいたものだなあと思うだけであるが、よく読んでみると、大変な「民間の噂(流俗の言)」が記録されている。何とこの善珠は、文武(もんむ)天皇の夫人(ぶにん)で首(おびと)皇子(後の聖武(しょうむ)天皇)の生母であった藤原宮子と僧玄昉との密通によって生まれたというのである。
倉本一宏『藤原氏』(中公新書、二〇一七年)より
図版制作/アトリエ・プラン
拡大画像表示