天皇家の人たちには名字がない──。地名、階層、職制、家系など多岐にわたる要素を組み込み、それぞれが何らかの意味をもつ名字。古代において天皇から職能や序列などを表すために与えられた「姓(かばね)」が、その始まりのようである。では、古代から現代にいたるまで、与える側の天皇や皇族が名字を持たなかったのはなぜだろう。私たちが、祖先から受け継いできた「名字」の成り立ちと変遷を、日本中世史が専門の奥富敬之氏の著書よりひも解く。(JBpress)
(※)本稿は『名字の歴史学』(奥富敬之著、講談社学術文庫)の一部を抜粋・再編集したものです。
姓名は、天皇から賜わるもの
日本最初の統一王朝である大和朝廷は、ひらたくいえば氏族連合政権だった。多くの氏族が天皇の下に寄り集まって、ひとつの政権を構成していたのである。
それぞれの民族集団は「氏(うじ)」と呼ばれた。氏族の長は「氏上(うじがみ)」と呼ばれ、同じ血縁の「氏人(うじびと)」たちを統率管理した。その下には非血縁の奴婢(ぬひ)たちが従属させられていて、「部曲(かきべ)」とか「部民(べみん)」と呼ばれていた。
つまり「氏」は、1人の氏上、複数の氏人、そして多くの部曲とから成り立っていたのである。
天皇の場合も同様だった。天皇は天皇氏という民族の氏上で、いわゆる皇族は、その氏人だった。しかし天皇氏に従属していた奴婢たちは部曲とはいわず、特別に「品部(ともべ)」と呼ばれた。
尊卑の序列を示す姓名
中央氏族の氏上は、朝廷に出仕して自分の氏の職能を果たしたり、氏上たちが開く会議に出席したりする。そのようなときの席次などを決定したのが、姓(かばね)と考えられる。姓は、もともとは氏人たちが氏上を呼ぶときに付けた尊称だったという説もあるが、これは誤りと思われる。
大和朝廷に連合あるいは臣従した際、その氏の身分の高下によって天皇から氏上に授けられた尊称で、それなりに尊卑の序列があった。つまりは、のちの爵位のようなものであり、「真人(まひと)」「大臣(おおおみ)」「大連(おおむらじ)」など20種類ほどあった。
天皇が姓を与えることを「賜姓(しせい)」という。そして与えられた姓名を名乗るということは、天皇を自分より上位の存在と認め、天皇に対する臣従と忠誠とを誓うという意味があった。