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軍医、文豪として知られる森鷗外は、「昭和」への改元でも大きな役割を担った。このほど刊行した『宮内官僚 森鷗外 「昭和」改元 影の立役者』(野口武則著、角川新書)では、元老・山県有朋を後ろ盾とするも、官制改革と病魔の前に挫折していく晩年の鷗外の戦いを、「令和」改元の裏側に迫った政治記者が明らかにしている。宮内官僚としての鷗外はどのような立場、どのような考えで「昭和」への改元に関わるようになっていったのか。
(*)本稿は『宮内官僚 森鷗外 「昭和」改元 影の立役者』(野口武則著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
今日まで続く近代元号制度を整備した森鷗外
文豪・森鷗外の墓は東京西郊・三鷹市の禅林寺にたたずむ。1922(大正11)年7月9日に60歳で病没した。毎年、命日には文京区立森鷗外記念館の事務局により、恒例の「鷗外忌」が営まれる。
JR中央線を三鷹駅で下車し、南口から中央通りを南へ歩くこと十数分。駅前商店街を抜けて連雀通りとぶつかる交差点を西に曲がると、寺の正面入り口に出る。
元号「令和」の選定に深く関わったある官僚は、改元の準備に携わりながら、この道を毎月歩んでいた。肩書は内閣官房副長官補付兼国立公文書館主任公文書研究官。大学、大学院で漢籍を学んだ専門職の官僚である。政府が元号考案を依頼した学者をつなぐ連絡役で、提出された元号案が過去に使用されたことはないか、先例や故事に照らしてふさわしいか、などを極秘に調査していた。
平成期を通じてたった一人で改元の事務作業に携わった「元号研究官」尼子昭彦氏は令和改元を見届ける直前に亡くなった。その後任にあたる人物だ。「匿名官僚」「特命官僚」としての極秘任務は、この人物に引き継がれていた。
「令和」は2019年4月1日に公表された。その4カ月ほど前まで、禅林寺の敷地と隣接するほど近いマンションの一室で、『論語』を読む勉強会が毎月開かれていた。日本と中国の思想史に詳しい元大学教授が主催し、この官僚は参加者の一人だった。一歩足を延ばせば鷗外の墓がある。
鷗外は晩年、宮内官僚として元号を研究した。歴代元号の出典を整理した『元号考』は生前に完成を見なかったが、死期が迫る中で親友宛の書簡に「最大著述」だと記している。今日まで続く近代元号制度を整備したのが鷗外だったのだ。およそ百年の時を経てその職を引き継いだ現代の「元号専門官」が、墓前で思いをはせることはなかっただろうか。