鷗外のもうひとつの転機が明治天皇の崩御でした。大正デモクラシーの波についていけず、徐々に時代に取り残されていきます。夏目漱石の活躍もそれも拍車をかけ、ついに名作『高瀬舟』を最後に、小説を書かなくなります。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

津和野町の街並み 写真=フォトライブラリー

漱石の小説にはぐうの音も出なかった

 明治時代の半ばに、わが国で流行したのが「リアリズム」です。

 前回も少し触れましたが、フランス文学のバルザックやビクトル・ユーゴーなどが書いた小説、ルノワールやマネ、モネなどの印象派などがいう「リアリズム」=自分が感じたとおりに粉飾することなく、ありのままに書(描)くという表現です。 

 ドイツに留学した鷗外も、リアリズムの影響を受けないはずがありません。

 ただ、文体はすでに触れたように、擬古文で読み難いものでしたが、内容は、洗いざらいなんでも書くというものでした。

『舞姫』もドイツで同棲していた女性との関係を小説化したものです。

 1900年代に入ると、『ヰタ・セクスアリス』(1909年)や、『沈黙の塔』(1910年)を発表します。

『ヰタ・セクスアリス』(1909年)は、主人公の性的経験の回想で、性をめぐる考察を書いたものでした。そのあからさまな内容から、当局から発禁処分を受けます。

『沈黙の塔』(1910年)では、大逆事件を機に強化された、政府の言論統制を批判した小説です。

 しかし、鷗外が書く小説は、文体が古く、わかりづらいものでした。

 そこに登場するのが夏目漱石です。一言でいえば漱石の小説は垢抜けていました。見事な語彙力で、人の心の動きがよくわかるように書かれています。

夏目漱石 写真=Interfoto/アフロ

 しかも漱石はロンドン留学後、「文学」を近代科学的な手法で研究した『文学論』を発表します。漱石は、「小説」ではなく「文学」をわが国に打ちたてることに成功したのです。

「小説」と「文学」の違い、それは、小説が「話の筋」を追うことに主眼が置かれるのに対して、「文学」は「社会」や「環境」との深い関連性の中で人の心の動きを緻密に描いていくことです。

 頭脳明晰な鷗外も、こうしたことはよくわかっていたに違いありません。

 しかし、鷗外に「小説」は書けても、「文学」を書く才能はなかったのです。

 攻撃しようにも漱石の小説はどんどん売れていき、鷗外はぐうの音も出ません。そして、漱石の裏には誰かいるに違いない、と考えるようになるのです。

 誰を、何を攻撃すれば、漱石の「文学」を支えているものを炙り出すことができるのか。

 この頃、日本語は大きな変化の時代を迎えていました。

 廃藩置県や士農工商の身分制度が廃止されることによって地方の方言と身分の差による方言が入り乱れる日本語では、互いの意思疎通がうまく行きません。

「標準語」を創ることが必要になるのです。

 これを牽引していたのが東京帝国大学のイギリス人チェンバレンとその弟子である国語学者の上田万年、芳賀矢一らでした。

 上田万年、夏目漱石、芳賀矢一は、皆同じ年の1867年の江戸(東京)生まれで、互いに知り合いです。

 後に芥川龍之介の作品なども掲載されることになる雑誌『帝国文学』を主宰したのは上田万年ですが、漱石も創刊の時から関わっていますし、なにより彼らは江戸っ子で仲のいい友だちだったのです。

 彼らが目指したのが「標準語」による「文学」です。

 誰もが読むことができて、誰もが自分の将来を自分の力で考え、開拓することができるための力になる「文学」。そのための「日本語」が必要だと考えたのです。

 しかし、鷗外はこの「言文一致」に大反対します。「日本語の文語、つまり和歌の言葉は天皇の言葉。連綿と伝えてきた言葉をなんとするおつもりか!」と一喝します。

 薩摩・長州が天皇を担いで行った明治維新は、「大日本帝国憲法」を標榜して「天皇」を中心にした中央集権の国家体制を布いていました。

 津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)という長州に近いところに生まれた鷗外は、明治天皇を「絶対」とした体制の中で、ドイツに留学を許され、天皇制を支えるための人として育っています。

 上田万年、夏目漱石、芳賀矢一など江戸っ子がほざく「言文一致」を、鷗外は馬鹿馬鹿しい落語か講談みたいなものじゃないかと思っていたに違いありません。