誰もが認める明治の文豪・森鷗外。ドイツ留学中の体験をもとにした代表作『舞姫』は、夏目漱石の『こころ』と並んで高校教科書に多く載った名作です。しかし、発表当時は「嘔吐するほど気持ち悪い」という批判を受けるなどの論争を呼びました。ドイツ留学と『舞姫』は鷗外にとって大きな岐路となります。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)
名家に生まれエリート街道まっしぐら
森鷗外、本名森林太郎は、1862年(文久2)、石見(いわみ)国津和野藩(現在の島根県鹿足郡津和野町)の御典医の長男として生まれます。9歳までに漢文の古典『論語』『孟子』はもちろん、儒教の十三種の経書『十三経』すべて読みこなし、父親からオランダ語も習います。
10歳で江戸に出てドイツ語を学び、12歳で東京医学校医学予科(現在の東大医学部)に入学。日本の古典文語文はもちろん、漢文、英語、ドイツ語、フランス語まで深く理解したといいます。
卒業後陸軍省に入って軍医となった鷗外は、1884年、22歳のときに念願だったドイツ留学を命じられます。目的は軍の衛生学の調査と研究です。
約4年間、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ウィーン、ベルリンの大学で学びました。ベルリンでは内務省衛生局員として留学していた、のちに日本近代医学の父と呼ばれる北里柴三郎の紹介で、コッホの指導を仰いでいます。
ドイツ留学中は持ち前の語学力を生かし、ドイツ人将校たちとジョークを言いながら肩を叩きあって朝まで飲む、というような生活だったといいます。うつ病になってしまった夏目漱石とは対照的で、当時の日本人留学生としてはかなり豪快でした。
それもそのはず、陸軍が鷗外に出した留学費は、当時のドイツの物価下落もあって、漱石のイギリス滞在に比べて20倍ほどの価値があったといいます。
潤沢な資金と高い水準の語学力や教養を得た鷗外は、ドイツで水を得た魚のように自由闊達な生活をしたのでした。
帰国後は軍医の仕事をしながら、小説を執筆します。医学や文学の評論や翻訳も手がけ、明治を代表する知識人として名声を高めました。同時に1907年(明治40)には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任、1916年(大正5)まで務めます。陸軍を退職してからは、今でいうなら東京、京都、奈良の3つの国立博物館の館長である、帝室博物館総長兼図書頭の職につき、亡くなる直前まで古典の研究や江戸時代の文献学者・本草学者などを題材とする伝記文学の著作を書くことになります。