『舞姫』論争

 御典医の長男として生まれ、軍医としても高い地位についた鷗外でしたが、鷗外は、若い頃から文学者になることを希望していました。

 ドイツ留学から帰ったのち、1890年(明治23)、徳富蘇峰が設立した民友社の雑誌『国民之友』1月号に、短編小説『舞姫』を発表します。『舞姫』は『うたかたの記』『文づかひ』とともに独逸三部作あるいは浪漫三部作と呼ばれます。

『舞姫』の冒頭は、こんな文章で始まっています。

 

 石炭をば早(は)や積み果てつ。中等室の卓(つくえ)のほとりはいと静(しずか)にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも仇(あだ)なり。今宵は夜毎にここに集(つど)ひ来る骨牌(カルタ)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残りしは余(よ)一人のみなれば。

 森鷗外『舞姫・うたかたの記 他三篇』(岩波書店)より

 

 鷗外の初期の文章はこのように漢文訓読体を交えた「擬古文」と呼ばれるスタイルで書かれています。現代では読みこなすのは非常に難しいでしょう。筑摩書房から出ている井上靖による現代語訳がおすすめです。

 この小説の粗筋を記しておきましょう。

 主人公の太田豊太郎は官吏として赴任したドイツのベルリンで、美しく薄幸な踊り子・エリスと出会い、恋に落ちます。職を失いながらも慎ましくも幸せな生活を送る二人でしたが、天方という伯爵の保護下で名誉を回復するか、ベルリンで惨めな生活を続けるかの決断を迫られます。豊太郎は妊娠しているエリスを置いて、天方とともにロシアに立つことを決めます。豊太郎の友人、相澤謙吉からロシアからそのまま日本に帰ることを告げられたエリスは精神を病んで入院、二人はそのまま別れてしまうのでした。

 妊娠しているエリスを置いて日本に帰る決意をした豊太郎が、旅から帰宅した時の描写をちょっと読んでみましょう。

 

 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝(い)ねずと覚ぼしく、烱然(けいぜん)たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺(さぎ)の如き雪片に、乍(たちま)ち掩(おお)はれ、乍ちまた顕(あらわ)れて、風に弄(もてあそ)ばるるに似たり。戸口に入りしより疲(つかれ)を覚えて、身の節の痛み堪(た)へ難ければ、這(は)ふ如くに梯(はしご)を登りつ。庖厨(ほうちゅう)を過ぎ、室(へや)の戸を開きて入りしに、机に倚(よ)りて襁褓(むつき)縫(ぬ)ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」

森鷗外『舞姫・うたかたの記 他三篇』(岩波書店)より

 

 シェークスピアの『マクベス』や、ゲーテの『ファウスト』のような、芝居じみた場面のようではありませんか? このあと彼は気を失い、数週間寝込んでしまいます。

 格式は高いのでしょうが、これでは、なかなかふつうの人には、伝わりません。

 発表の1週間後、社会教育家の巌本善治は「森林太郎氏の『舞姫』に対して、「吾れ一読の後ち躍り立つ迄に憤おり、亦嘔吐するほどに胸わるくなれり」(『女学雑誌』95号)と批評します。

 その理由は主人公が、舞姫と結婚もせずに通じて妊娠させたこと、伯爵に招かれればすぐに日本に帰ろうとしたこと、意志が弱いこと、虚栄のためにエリスと別れ、精神的に病んだエリスを置いて日本に帰ったこと、それを船の中でクヨクヨと嘆いたこと、としています。

 文学的な批判というより作家の人格に対する批判でもあり、これに対して鷗外は何も反論しませんでした。

 しかし、1か月後の『国民之友』において、小説家であり文芸批評家の石橋忍月が気取半之丞のペンネームで発表した批評に対して、鷗外は猛反撃をします。

「舞姫に就きて気取半之丞に与うる書」という文章を、鷗外自ら主宰した月刊の文芸雑誌『しがらみ草紙』第七号に書き、それだけではおさまらず『国民新聞』に6回にわたって掲載し、石橋を徹底的に攻撃するのです。

 それもなんと、自分の名前ではなく主人公の友人・相澤謙吉が答えるという体裁にして、相澤謙吉の名で発表したのです。

 その内容はというと、豊太郎はエリスを大切にしていたし、エリスが精神を病まなかったら帰国するという決断はしなかったかもしれない。豊太郎こそこのことを悔いて自殺したかもしれない。そうならなかったのはたまたまなのだ、というものでした。

 どうみても苦し紛れの言い訳です。その裏にはドイツで知り合ったエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトという女性と関係があったこと、この女性が鷗外を追って日本に来たことの弁明なのでした。

 これが世に言う「舞姫論争」です。

 気取半之丞こと石橋忍月は呆れ果てたのか、これ以上、鷗外を攻撃しませんでしたが、鷗外はこれ以降も何度か、石橋に難癖をつける文章を書いています。