権威を手にした鷗外の医者としての失敗

写真:近現代PL/アフロ

 さて、名家に生まれ、神童といわれながら恵まれた環境で学業を積み、数々の権威を手にしてきた鷗外ですが、文学者としての批判を受ける前に、軍医として批判される出来事がありました。

 それは陸軍兵に20万人以上の脚気患者と、脚気による3万人ともいわれる死者を出してしまったことです。

 鷗外がドイツに留学した頃、日本陸軍では脚気患者が多いことに悩まされていました。食事は精白米中心で、鷗外を含む何人かの医者は脚気を感染症だとする説をとっていて食事内容の変更をしませんでした。治療の方法も見出せず、多くの犠牲者を出してしまったのです。

 一方、海軍軍医総監の高木兼寛は、欧米の軍隊には脚気患者がいなかったことから、パン、牛乳、野菜を多くして米飯を減らした食事を試みたところ、症状が緩和され、死者はほとんど出なかったそうです。高木兼寛は兵食を西洋式にすることを提案しますが、鷗外は大反対します。1885年(明治18)に「日本兵食論大意」を発表し、これまでの日本食でまったく問題ないと主張して西洋食を取り入れませんでした。

 脚気の原因は1910年(明治43)、鈴木梅太郎によって玄米から精白米中心の食事になって、米糠にふくまれているビタミンB1が不足してしまったことによるビタミンB1欠乏が脚気の原因であることがわかります。

 しかし、この責任は問われることなく、鷗外はエリート街道を突き進んだのです。