41歳で作家デビューし82歳で亡くなるまでの作家生活は41年。作品数は長篇、短篇などあわせて1000篇に及ぶという松本清張。ドラマ化や映画化された作品は数え切れません。そんな驚異的な人気作家・清張の岐路はノンフィクション『日本の黒い霧』を書いたことでした。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)
社会の闇を描くことに目覚める
朝日新聞九州支社で広告版下の仕事に携わっていた松本清張は、1950(昭和25)年、41歳の時に『週刊朝日』が募集した「百万人の小説」に応募した『西郷札』が三等に入選。翌々年に『三田文学』に発表した『或る「小倉日記」伝』が、第28回(昭和27年度下半期)の芥川賞を受賞します。これを機に東京に移り住み、フィクション、ノンフィクション、評伝、古代史、現代史など、創作の領域を拡大しながら執筆に没頭し、独自の世界を構築していきました。
そんな清張の大きな転機となったのは、月刊誌『文藝春秋』に1960(昭和35)年1月号から12月号にかけて連載された、連作ノンフィクション『日本の黒い霧』でした。アメリカ軍占領下の日本で起きた下山事件、帝銀事件などの重大事件について、独自の視点で真相を推理するという内容の連載です。
当時、「黒い霧」という言葉が流行語になるほどの社会現象となり、政財界の不正な行為など、背後に不正や犯罪などが隠されていることをたとえる言葉にもなったのでした。
1958年、空前のベストセラーとなった単行本『点と線』は、こういう文章で始まります。
安田辰郎は、一月十三日の夜、赤坂の割烹料亭「小雪」に一人の客を招待した。客の正体は、某省のある部長である。安田辰郎は、機械工具商安田商会を経営している。この会社はここ数年に伸びてきた。官庁方面の納入が多く、それで伸びてきたといわれている。だから、こういう身分の客を、たびたび「小雪」に招待した。
安田は、よくこの店を使う。この界隈では一流とはいえないが、それだけ肩が張らなくて落ちつくという。しかし座敷に出る女中は、さすがに粒が揃っていた。
安田はここではいい客で通っていた。むろん、金の使い方はあらい。それは彼の「資本」であると自分でも言っていた。客はそういう計算に載る人びとばかりであった。もっとも、彼はどんなに女中たちと親しくなっても、あまり自分の招待した客の身分をもらしたことはなかった。
現に、去年の秋から某省を中心として不正事件が進行していた。それには多数の出入り商人がからんでいるといわれている。現在は省内の下部の方だが、春になればもっと上層へ波及するだろうと新聞は観測していた。
そういう際でもあった。安田はさらに客について用心深くなった。客によっては、七度も八度も同じ顔があった。女中たちはコーさんとか、ウーさんとか言っているが、素性は全然知らされなかった。が、安田の連れてくる客のほとんどが、役人であるらしいことは、女中たちは知っていた。しかし、招待客はどうでもよい。金を使うのは安田であった。「小雪」は、彼を大事にしておけばよかった。
松本清張『点と線』(文藝春秋)より
これだけでも、固唾を飲んで、ページをめくりたくなります。
『点と線』『目と壁』などで、社会派推理小説のブームを起こした清張でしたが、当時、彼自身、作家として何を書いていけばいいのか、まだ暗中模索の状態でした。
しかし、清張は気がつくのです。
社会で起こっていることの裏にはびこる「黒い霧」を書くと、世の中の人が夢中になって読むのだ、と。
清張は、こうして陰謀論ギリギリの内容を書いていくことを決めたのです。
以後、彼は、事件や政治、歴史にいたるまで、社会の裏に存在する「闇」を小説やノンフィクションで描いていきます。