川端康成とは対照的

 前回紹介したノーベル賞作家・川端康成と松本清張は、同時代の作家です。川端には人間の内なるものを見つめるという理想がありました。

 一方、清張は『西郷札』の後に書いた『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞しましたが、『西郷札』も直木賞候補に上がっていたのです。

 同じ作家が直木賞と芥川賞を受賞することなどあり得ないことですが、もしかしたらほとんど同時にダブル受賞という可能性もありました。

 それほどまで、松本清張という人は、筆に力があったのです。

 ただ、芥川賞を受賞しても、清張には純文学を目指す志向はまったくありませんでした。

 尋常高等小学校が最終学歴、そして植工や校正の仕事をしながら苦労して生きて来た清張にとって必要なものは、生きるための「お金」だったのです。

 また、川端が日本の美しいところを描こうとしたのに対して、清張は日本の「陰」や「闇」を描きます。

 権力の側ではなく、「なんで俺が騙されなきゃいけないんだ」「なんで俺たちが戦争に行かなくちゃいけないんだ」といった大衆の側に清張は立ちます。

 そして「誰か操っている奴がいるに違いない」という、陰謀が渦巻く黒い闇が世の中にはたくさんあるということを、書いて書いて書きまくったのです。世情を踏まえて、大衆のために陰に隠れて見えない部分を暴いてやろうとしていたのだと思います。

 また前回、川端の小説は飛ぶということを紹介しました。

 話が飛んでしまうと何があったんだろう、うまくいったのか、などと読者は考えてしまいます。

 しかし、清張の作品は点と点を最後にしっかり結んでくれるので、読者は驚くとともに、スッキリします。こんなところも川端と清張は対照的です。

 ただひとつ共通するのは、小説の中で、「女性」が大きな役割を果たしたことです。

 でも、「女性」の小説での役割は、まったく異なります。

 川端が母親のような理想の女性を描くのに対して、松本清張はそれとはまったく別の女性を描くのです。