『高瀬舟』は失敗作なのか

 明治天皇の崩御は、そうした鷗外の環境をすっかり変えてしまいます。

 そんな時に書いたのが『高瀬舟』です。

 1915年(大正4)に書かれた『高瀬舟』は、わが国では中学3年の教科書に掲載されていることが多い作品です。

 この小説では「知足=足るを知る」と、「安楽死」が大きなテーマになっています。

 主人公の喜助は弟を殺した罪で、遠島の罰を受け、大坂へ送られます。喜助を高瀬舟に乗せ、京都から大坂へ護送する役目を任されたのが、同心の庄兵衛でした。

 喜助が殺めたのは、一緒に暮らしていた弟でした。病気で働けなくなった弟は、兄の喜助に迷惑がかかると、ある日、死のうとして剃刀で喉を切りますが、うまくいかず剃刀が喉に刺さったままになってしまいます。仕事から帰った喜助はそれを見て医者を呼ぶと言うのですが、弟は兄を止め、苦しいから早く剃刀を抜いてくれと頼みます。

 迷った末、言う通りにすると傷口が広がり、大量の出血をして弟は死んでしまいます。これを手伝いに来たおばあさんに見られ、罰を受けることになったと話します。

 弟の望みを聞いて、結果的に殺人者になった喜助に対して、庄兵衛はこれが果たして弟殺しなのかと考えます。まさしく安楽死の問題です。

 じつは1912年(明治45)から1913年(大正2)くらいにドイツで初めて安楽死が問題になっていました。医者である鷗外は論文を見てそれを知っていました。

 しかし、安楽死の問題をどうとらえればいいのか、鷗外にはわかりませんでした。

 鷗外は息子・不律(フリッツ)を病気で亡くし、娘の茉莉も重病に罹り、死にかけます。その時医者から「この子はもう助かりません、モルヒネを打ってやれば楽に死ねますから」と言われたそうです。

 親戚の人たちが「もう少し待ってあげなさい」といって止めると、茉莉は快方に向かいます。もしかしたら喜助にも、ほかの方法があったかもしれません。けれど弟の望みを聞き、結果的に殺してしまいます。

 小説の最後は次のような文章で終わっています。

 

 庄兵衛はその場の樣子を目のあたり見るような思いをして聞いていたが、これが果して弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという疑いが、話を半分聞いた時から起こってきて、聞いてしまっても、その疑いを解くことができなかつた。弟は剃刀を拔いてくれたら死なれるだらうから、抜いてくれと云つた。それを抜いてやって死なせたのだ、殺したのだとは言われる。しかしそのままにしておいても、どうせ死ななくてはならぬ弟であったらしい。それが早く死にたいと言ったのは、苦しさに耐えられなかったからである。喜助はその苦を見ているに忍びなかった。苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑いが生じて、どうしても解けぬのである。

 庄兵衞の心の中には、いろいろに考へてみた末に、自分より上のものの判断に任す外ないという念、オオトリテエに従う外ないと云ふ念が生じた。庄兵衞はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衞はまだどこやらに腑(ふ)に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかった。

 次第に更けて行く朧夜(おぼろよ)に、沈默の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。

『教科書で読む名作 高瀬舟・最後の一句ほか』(筑摩書房)より

 

 安楽死の是非は自分ではわからないので、お奉行様、つまり今で言うなら裁判官に聞いてみたい、というのです。

『高瀬舟』を失敗作だと言う人もいます。

「自分より上のものの判断に任す外ないという念、オオトリテエに従う外ないと云ふ念が生じた。」

 という部分が問題視されました。オオトリテとはauthority、つまり権威、権力者という意味ですから、権威に従わざるとえないという結論で終わっているこの小説は、失敗作だというのです。

 個人が自分の意思で考えるのではなく、権威を重視するという鷗外は、自立した考えを持っていないじゃないか、やっぱり長州側についていた権威主義の人間だ、といった批判を受けたのです。

 そして『高瀬舟』以降、鷗外は、自分の心の師は誰かと考えはじめるようになります。

 はたして、こうして鷗外が見つけたのが、江戸時代の蘭学者です。

 名著とされる史伝『澁江抽斎』『伊沢蘭軒』は、こう言って良ければ、漱石の『こころ』の中の主人公「先生」です。

 漱石が、『三四郞』『それから』『門』、『彼岸過ぎまで』『行人』『こころ』と、前後期の三部作によって、自分が自分であるための道を辿りながら、離陸しようとしたのに対し、鷗外は結局、最後に漱石の「先生」から始める道までしか行くことができないのです。

 それは、もちろん漱石より5年前に生まれた秀才だったということもあるでしょう。しかし、それ以上に「権威」による足枷が鷗外の岐路に立ちはだかったのではないかと思うのです。その岐路に生まれたのが、『舞姫』と『高瀬舟』という名作だったのです。