元号考案に関わった宮内省側の4人の肩書を全て兼ねる

 まず、股野は帝室博物館総長を長年勤めた鷗外の前任者である。勅書など天皇が発する文書の事務を所掌する内大臣秘書官長を兼務していた。

 次に図書助の高島だが、「明治四十五年 職員録(甲)」を見ると、同年5月1日時点で図書寮の「主事」として名前が記される。図書頭が図書寮のトップで、主事は事務を取り仕切るナンバー2の位置づけだ。

 高島の肩書は、1906年6月30日から08年1月1日までは図書助、08年1月1日から14年7月8日まで主事となっており、以前の「図書助」の肩書で記されたのだろう。大正改元時の図書頭・山口鋭之助は学習院長を務めた理学博士だったため、漢籍に通じた高島に役目が回ってきたとみられる。因みに、股野は「藍田」、高島は「九峰」の号を称し、漢詩人としても著名だった。また、岡田は漢文学者であり文学博士だ。

 以上、大正改元時の元号考案を担った専門家の肩書を鷗外と比べてみよう。鷗外は1913年から宮内省の臨時御用掛を務めている。衛生学を専門とする陸軍医として宮中の衛生管理が主な任務だったが、その他に皇室関係の勅語の添削も行った。

 帝室博物館総長兼図書頭への就任を機に形式上は臨時御用掛の任を解かれたが、その後も文書添削の業務は続けている。また、鷗外は医学博士だけでなく文学博士の資格も有していた。

 さらに、帝室博物館総長の股野と図書助の高島を合わせた常勤の役職を、1917年12月以降は鷗外が一人で兼ねた。つまり、大正の代替わりで元号考案に関わった宮内省側の4人の肩書を、鷗外が全て兼ねていくことになる。

 前例踏襲が旨の官僚制の下では、近代日本最初の改元は以後の先例となり得る。実際、内閣側では「大正」を考案した国府が、昭和改元時も考案者の一人に名を連ねた。帝室博物館総長兼図書頭は、次の元号考案を担うべき役職だったと言える。

宮内官僚 森鷗外 「昭和」改元 影の立役者』(野口武則著、角川新書)