禅林寺の石碑に刻まれた鷗外の遺言
禅林寺の正面入り口から駐車場を抜けて山門をくぐると、本堂の手前に鷗外の遺言が刻まれた石碑が建つ。
余は少年の時より老死に至るまで一切秘密無く交際したる友は賀古鶴所君なり。ここに死に臨んで賀古君の一筆を煩はす。死は一切を打ち切る重大事件なり。奈何なる官憲威力と雖此に反抗する事を得ずと信ず。余は石見人森林太郎として死せんと欲す。宮内省陸軍皆縁故あれども生死別るる瞬間あらゆる外形的取扱ひを辞す。森林太郎として死せんとす。墓は森林太郎墓の外一字もほる可らず。書は中村不折に依託し宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめを請ふ。手続はそれぞれあるべし。これ唯一の友人に云ひ残すものにして、何人の容喙をも許さず。
大正十一年七月六日
森林太郎言
賀古鶴所書
幕末の1862(文久2)年に石見(現・島根県)・津和野の藩の典医(藩主に使える医者)の家に長男として生まれ、陸軍医として最高位の陸軍省医務局長(階級は陸軍軍医総監)に登り詰めた。

1916年4月13日に54歳で職を辞したが、翌17年12月25日に帝室博物館総長兼図書頭として再び出仕した。今の東京・上野にある国立博物館長と、宮内庁の書寮部長にあたる高級官僚である。生涯、官僚と作家の二足のわらじを履きこなしたが、本名の森林太郎より鷗外と号した文豪としての雅号が知られている。
にもかかわらず、死に臨んで宮内省、陸軍の経歴だけでなく、文豪としての名声も含めて墓石に刻むことを一切拒んだ。残ったのは、一個人としての森林太郎だけである。
本堂の裏に広がる墓地に歩みを進める。森家の墓石は5つある。その中央に鷗外のものが立ち、正面に「森林太郎墓」とだけ彫られている。左側面の左下に「中村鈼太郎書」と、書家の中村不折の署名が本名で刻まれるところまでは遺言の通りだ。ただし、左側面の中央には「大正十一年七月九日歿」とある。
「森林太郎墓の外一字もほる可らず」との遺言が書かれた石碑を読んだ後に墓石を訪ねると、「大正」の文字が際立つ。なぜ「大正」が刻まれたのか。官としての業績も文豪としての名声も一切を拒絶した鷗外だが、元号だけは別だったのか。
詩人の木下杢太郎は、鷗外を「テエベス百門の大都」と呼んだ。「百の門を持つ」と繁栄が謳われた古代エジプトの都・テーベ(テエベス)になぞらえ、鷗外の知識や取り組んだ分野の幅広さを称えた。
鷗外の作家や軍医としての側面を描いた研究書や著作は汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)のごとくある。一方、宮内官僚としてはほとんど注目されていない。しかし、官としての事績なら、公文書から辿ることができるはずだ。
「鷗外論の最も大きな、そして最後の課題は、この遺書を読み解くことにあるといって過言ではない」(宗像、2022年)とされる。晩年の公務を解き明かすことで、遺言を巡る新たな「門」を開くことができるのではないか。