元号に苦言を呈する

 鷗外は生涯の親友である賀古鶴所(東京大学医学部の同級生であり、陸軍医としても同期)へ宛てた1920(大正9)年4月28日の書簡でこう記した。

(前略)諡のことが済んで(印刷はまだ許されず)年号にとりかかり候。明治は支那の大理と云ふ国の年号にあり。尤もこれは一作明統とあるゆゑ、明治ではなかつたかも知れず。大正は安南人の立てた越といふ国の年号にあり。又何も御幣をかつぐには及ばねど、支那にては大いに正の字の年号を嫌候。「一而止」と申候。正の字をつけ滅びた例を一々挙げて居候。不調べの至と存候(以下略)

 図書頭として2年半ほど務めた鷗外は、まず天皇の死後につけるおくり名(諡号)の典拠を調べた『帝諡考』の編纂を終え、次いで歴代元号の典拠を調べる『元号考』の作成に取りかかっていた。

 大正は過去にベトナムにあった「越」という国で既に使用されており、「正」の字を上下に分離すると「一」にして「止まる」となり縁起が悪いと、中国で議論されたことがあると言うのだ。にもかかわらず、「大正」という元号が選ばれてしまい、「不調べの至」だと断じている。

 なぜ、この時、鷗外は大正を「不調べ」と評したのか。鷗外が正しいとすれば、なぜ大正は選ばれてしまったのか。そもそも、鷗外はどのような経緯で『元号考』に取り組んでいたのか。

 宮内公文書館と国立公文書館が蔵する公文書に、鷗外就任前の大正改元の経緯が詳細に記録されている。1918年8月30日までに完成した大正の『大礼記録』全128冊である。近代国家として初の代替わりを記録した史料であるため、単に『大礼記録』とされているが、後世のものと区別するため、以下は『大正大礼記録』と記す。

 長らく部外秘だったが、平成期に閲覧できるようになり、皇室研究の大家である所功・京都産業大名誉教授が『近代大礼関係の基本史料集成』(国書刊行会、2018年)で改元の部分を翻刻紹介している。

『大正大礼記録』巻五(第二輯 践祚改元)のうち、「第二編 改元」の項にある「第一章 元号の建定」と「第二章 元号建定の次第」に経緯の概略が記される。

 1912(明治45)年7月19日、天皇は宮中で夕食中に倒れ、翌日に病状が国民に公表された。体調の悪化を受けて、当時の首相・西園寺公望が新たな元号の準備を始めたのが7月28日。天皇の死が公式発表される二日前のことだ。「是の日 二十八日 元号撰進の命を受けたる者を左の五人と為す」と、元号案の作成を命じられた者の名前が以下のように記されている。

内大臣秘書官長    股野 琢
宮内省御用掛     多田好問
学習院教授      岡田正之
図書助        高島張輔
内閣書記官室事務嘱託 国府種徳

 戦前の学習院は宮内省の組織だったため、5人のうち内閣の国府を除く4人が宮内省の官吏や関係者だ。