(歴史学者・倉本一宏)
順調に出世した藤原北家の貴族
「平城太上天皇(へいぜいだじょうてんのう)の変(薬子(くすこ)の変)」関連で、首謀者として殺されてしまった藤原仲成(なかなり)について見てみよう。『日本後紀』巻二十の弘仁元年(八一〇)九月戊申条(十一日)には、次のように仲成の死と伝記が載っている。
この夜、左近衛将監紀(き)朝臣清成(きよなり)・右近衛将曹住吉臣豊継(とよつぐ)に、収監している右兵衛府で仲成を射殺させた。仲成は、参議正三位宇合(うまかい)の曾孫で、贈太政大臣正一位種継(たねつぐ)の長子である。生まれつき凶暴で心がねじれ、酒の勢いで行動するところがあり、親族の序列に従わず、諫止する人を無視し、妹の薬子が朝廷で勝手な行動をするようになると、その威を借りてますますわがままな振る舞いをした。多くの王族や老齢の高徳者が辱められた。民部大輔笠(かさ)朝臣江人(えひと)の娘が仲成の妻となった。仲成は妻の叔母が美人であるのを見て関心を寄せたが、嫌って馴染まないので、力づくで自分の意を通そうとした。その叔母が、思いを寄せている佐味(さみ)親王がその母である桓武(かんむ)天皇の夫人(多治比真宗/たじひのまむね)と一緒に住んでいる邸に逃げ込むと、そこに上がり込み、叔母を見付けて荒々しい言葉を吐き、道理に背いた行動に出た。甚だ人の道に外れたことであった。今回、射殺されたことについて、人々は皆、「自ら招いたことである」と言った。
仲成は、桓武の権臣として長岡京の造営に心を砕いていた種継が延暦四年(七八五)九月に暗殺されたため、十一月に二十二歳で早くも従五位下に叙され、翌延暦五年(七八六)に衛門佐に任じられたのを皮切りに、出雲介・出羽守・出雲守・左中弁・越後守・山城守・治部大輔・主馬頭・大和守・兵部大輔・右兵衛督を歴任した。延暦二十年(八〇一)には従四位下に昇叙されるなど、順調に昇進したと言えよう。
次の平城天皇の時代に入ると、妹の尚侍薬子の女(名は不明)が平城の宮女となって出仕し、やがて薬子も平城の寵を受けたことによって、仲成も重用されることになった。大同二年(八〇七)に起こった「伊予親王の変」の首謀者にもなったとされ、平城皇統を支える権臣の立場を嗣いだのである。大同三年(八〇八)に右大弁、そして大同四年(八〇九)に北陸道観察使(平城が参議を改称したもの)に大蔵卿を兼ね、弘仁元年(八一〇)六月十日にはついに参議に上った。四十七歳の年のことであった。
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しかし、行政改革を推進して貴族層の意識とは乖離していた平城太上天皇と対立した嵯峨(さが)天皇は、三月に蔵人所を設置し、勅令を(藤原薬子などの女官を介さず)直接に太政官組織に伝える態勢を整えた。蔵人頭に補されたのは、内麻呂の子である藤原冬嗣(ふゆつぐ)であった。ここに平城を包摂した式家と、嵯峨を取り込もうとした北家との、藤原氏内部の権力闘争の様相も現われてきた。北家の内麻呂は、嫡子の真夏(まなつ)を平城の側近に配し、次男の冬嗣を嵯峨に接近させたのである。
死は「自ら招いたことである」
七月十九日、病悩の続く嵯峨は内裏を出て東宮に遷御し、平城に神璽を返して退位しようとした。これを真に受けた平城は、九月六日、平城は平城旧京への遷都を号令した。これに対し嵯峨は、九月十日、遷都によって人々が動揺するというので伊勢・美濃・越前の三関を固め、宮中を戒厳下に置いた。そして仲成を拘禁し、薬子と仲成の罪状を詔として読み上げ、薬子を官位剥奪・宮中追放に処し、仲成を佐渡権守に左遷したのである。
嵯峨の動きを知った平城は激怒し、諸司・諸国に軍事防衛体制を取るよう命じるとともに、畿内と紀伊の兵を徴発して、十一日の早朝に東国に赴こうとした。
一方、嵯峨(と内麻呂)は坂上田村麻呂を美濃道に派遣するとともに水陸交通の要衝に頓兵を配備し、拘禁していた仲成を射殺した。これが仲成の最期ということになる。