(歴史学者・倉本一宏)
『続日本後紀』に書かれた空海の生涯
ここから六国史の四つめ、『続日本後紀』に入る。『続日本後紀』は、仁明(にんみょう)天皇の天長十年(八三三)から嘉祥三年(八五〇)までの十八年間を扱う。文徳(もんとく)天皇の勅命により、斉衡二年(八五五)に編纂が開始され、貞観十一年(八六九)に完成した。全二十巻。天皇一代だけの正史は『続日本後紀』がはじめてであり、次の『日本文徳天皇実録』に受け継がれる。
最初は超有名人からご登場願おう。『続日本後紀』巻四の承和二年(八三五)三月丙寅条(二十一日)には、
大僧都伝燈大法師位空海(くうかい)が、紀伊国の禅居(高野山金剛峯寺[こうやさんこんごうぶじ])で死去した。
とあって、空海が示寂したことが見える。官人ではないので、公的な卒伝が載ることはなかったが、さすがは空海、四日後の庚午条(二十五日)に、次のような淳和(じゅんな)太上天皇の弔書(ちょうしょ)が載せられている。
天皇(仁明)が勅により内舎人一人を遣わして、空海法師の喪を弔い、喪料を施した。後太上天皇(淳和)の弔書は、次のとおりであった。
空海法師は真言(しんごん)の大家で、密教(みっきょう)の宗師である。国家はその護持に頼り、動植物に至るまでその慈悲を受けてきたが、思いもよらず、死期は先だと思っていたのに、にわかに無常に侵され、救いの舟も同前の活動をとり止め、年若くして現世を去り、帰するところを失ってしまった。ああ、哀しいことである。禅関(金剛峯寺)は都から離れた僻遠の地なので、訃報の伝わるのが遅く、使者を走らせて荼毘に当たらせることができず、恨みに思う。悼み恨む思いの止むことがない。これまでの汝(空海)の修行生活を思う時の、悲しみのほどを推量されよ。今は遠方から簡単な書状により弔う。帳簿に載る正式の弟子、また親しく教えを受けた僧侶らの悲しみは、いかばかりであろう。併せて思いを伝える。
空海法師は讃岐国多度郡の人で、俗姓は佐伯(さえき)直である。十五歳の時、叔父従五位下阿刀(あと)宿禰大足(おおたり)について書物を読習し、十八歳の時、大学に入った。当時、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を説く僧侶がおり、その経説によれば、この法により虚空蔵菩薩の真言を百万遍読唱すれば、一切の教典やその解釈を暗記できるということであった。そこで空海はこの菩薩の誠のこもった教説を信じ、修行への大勇猛心を起こし、阿波国の大滝山に登り、また土佐国の室戸崎で思念に耽り、深い谷で木霊(こだま)を聞き、星が口中に入る奇瑞(きずい)を経験し、これより智恵と悟りが日々に進み、この体験を文章にした。世に伝わる『三教指帰(さんごうしいき)』は、二晩で書き上げたものである。書法に勝れ、後漢の書家張芝(ちょうし)に並ぶほどであり、草聖(草書の聖人)と称された。三十一歳の時、得度し、延暦二十三年に留学僧(るがくそう)として入唐し、青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)和尚に遭い、真言を受学した。そして真言の宗義に完全に通じ、大切な経典を伴って帰朝して、密教の宗門を開き、大日如来(だいにちにょらい)の教旨を弘めた。天長元年に少僧都に任じられ、同七年に大僧都に転じた。自ら終焉の地を紀伊国金剛峯寺に定め、隠棲した。死去の時、年六十三歳。
空海については、今さら私などが申すまでもないが、当時の国家(つまり天皇)が、空海をどのように認識していたかが、この弔書に集約されている。