(歴史学者・倉本一宏)
美麗で柔質、倨傲でも天皇は咎めず
女性を取り上げるのは、はじめてであろうか。光仁(こうにん)天皇皇女で桓武(かんむ)天皇の妃となった酒人(さかひと)内親王である。『日本後紀』巻三十七の天長六年(八二九)八月丁卯条(二十日)には、次のように見える。
二品酒人内親王が薨去した。光仁天皇の皇女である。母は贈吉野皇后(井上[いのうえ]内親王)である。容貌が美麗で、柔質(たおやか)にして窈窕(ようちょう/上品で奥ゆかしい)であった。幼くして斎宮となり、年を経て退下し、すぐに三品に叙された。桓武天皇の後宮に入り、盛んな寵愛を受け、朝原(あさはら)内親王を産んだ。生まれつき倨傲(きょごう/おごり高ぶること)で、感情や気分が不安定であったが、天皇は咎めず、その欲する所に任せた。そのため婬行(あるいは媱行)がいよいよ増し、自制することができなくなった。弘仁年中に、年老い衰えたのを憐れんで、特に二品を授けた。常に東大寺に於いて万燈会を行ない、死後の菩提のための資とした。僧侶たちはこれを寺の行事として広めた。薨去した時、年は七十六歳。
称徳(しょうとく)天皇が皇太子を定めないまま死去した際、式家を中心とする藤原氏が、遺詔を偽造して、聖武(しょうむ)皇女の井上(いのうえ)内親王と結婚して他戸(おさべ)王を儲けていた天智(てんじ)孫王の白壁(しらかべ)王を立太子させて即位させた(光仁天皇)ことは、先に述べた。この井上内親王には、もう一人、子がいたのである。それがこの酒人内親王である。
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酒人内親王は、天平勝宝六年(七五四)の誕生。他戸王(光仁の即位後に親王)よりも三歳、年少であった。宝亀元年(七七〇)に三品に叙された。二年後の宝亀三年(七七二)三月に母の井上内親王が光仁を呪詛した事件に連坐して皇后を廃され、それにまた、五月に他戸親王が連坐して皇太子を廃されてしまったことも、先に述べた。
そしてその年の十一月十三日、酒人内親王は、十九歳で伊勢の斎王に卜定された。すでに成人していた酒人の卜定は、なにやら事件との関連が気にかかるところである。潔斎のため、春日斎宮に籠った後、宝亀五年(七七四)九月に、伊勢斎宮に群行した。いまだ後の鈴鹿峠は開通していなかったので、現在の草津線沿いのルートを通って、柘植から加太、鈴鹿関、安濃、壱志と進んだことであろう。
このまま伊勢での穏やかにして厳粛な日々が続くと思われたのも束の間、翌宝亀六年(七七五)四月、井上内親王と他戸親王が、幽閉先で同日に急逝した。もちろん、自然死ではなかろう。近親が死去すると、伊勢斎宮は退下して京に戻るのが通例である。酒人は群行とは別のルートを通って、おそらくは大和経由で帰京したことであろう。
帰京後、酒人は新たに皇太子の座に坐った異母兄の山部(やまべ)親王(後の桓武天皇)の妃となった。聖武天皇の血を引く酒人との婚姻による、新皇統の荘厳がはかられたのであろう。酒人は、宝亀十年(七七九)に朝原(あさはら)内親王を産んだが、この朝原内親王も後に伊勢斎王に卜定された後、桓武の皇太子である安殿(あて)親王(後の平城[へいぜい]天皇)の妃となった。