(歴史学者・倉本一宏)
安倍晴明が子孫と称する名族
これも(元)名門氏族出身の官人である。『日本後紀』巻三十四の天長三年(八二六)九月庚午条(六日)には、次のように記されている。
伊予守従四位上安倍朝臣真勝(まかつ)が卒去した。真勝は大宰大監正六位上三綱(みつな)の子である。延暦年中に従五位下に叙され、陰陽頭に任じられた。弘仁十一年に従四位下に叙され、神祇伯に任じられた、甲斐守・伊予守を歴任した。生まれつき質樸(しつぼく)で、阿(おも)ねり媚(こ)びることを好まなかった。老荘(ろうそう)の教えを学び、能く自らその文を読んだことは流れるようであったが、その意味については精通していなかった。歴任した職では、頗る寛静をもって処したと称された。卒去した時、七十三歳であった。
阿倍(あべ/安倍)氏というのは、大和国十市郡安倍を本拠とする、大化前代以来の名族である。伊賀国阿拝郡を本拠とする阿閉(あへ)氏との関連も指摘されている。
『日本書紀』に、崇神(すじん)十年に大彦命(おおひこのみこと)を北陸に派遣したという記事が見えるが、阿倍氏はこの大彦命を始祖と称している。埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌(きんぞうがん)銘(四七一年)に見える「意富比垝(おほひこ)」をこの大彦命に充てる説もある。
また、阿倍氏を伴造とする丈部(はせつかべ)が東国・北陸に多く分布したり、『日本書紀(にほんしょき)』で崇峻(すしゅん)二年に阿倍臣を北陸道に派遣して越(こし)などの国境を観させたとあったり、斉明(さいめい)四年(六五八)に阿倍比羅夫(ひらふ)が蝦夷(えみし)を伐ち、齶田(あきた)・渟代(ぬしろ)、さらには渡島(わたりのしま)を平定したと伝えられるように、東国・北陸の経営と関係深い氏族であった。
六世紀前半の欽明の代から、阿倍氏は蘇我(そが)大臣(オホマヘツキミ)の下で大夫(マヘツキミ)として政治に参画しており、大化直前には筆頭大夫であった阿倍内麻呂(うちまろ/倉梯麻呂(くらはしまろ))は、大化改新政府の左大臣に任じられた。その女(むすめ)の小足媛(おたらしひめ)は孝徳(こうとく)、橘娘(たちばなのいらつめ)は天智(てんじ)の、それぞれ妃となり、小足媛は有間(ありま)王子を産んでいる。壬申(じんしん)の乱では大海人(おおしあま)王子に協力し、御主人(みうし)は大宝律令体制の発足とともに右大臣に任じられた。
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七世紀にはすでに、布勢(ふせ)・引田(ひけた)・許曾倍(こそべ)・狛(こま)などいくつかの家に分かれており、御主人以後は阿倍氏の中心は引田氏系から布勢氏系に移った。しかし、和銅五年(七一二)の阿倍宿奈麻呂(すくなまろ/比羅夫の子)の奏言では、比羅夫の出た引田氏系こそ阿倍氏の正宗と主張している。
ここで紹介する真勝も、父の三綱こそ大宰府の三等官である大監で終わったが(位階も正六位上であることから、早世したものと思われる)、祖父の毛人(えみし)と大叔父の島麻呂(しままろ)は参議、曾祖父の広庭(ひろにわ)は中納言、そして右大臣御主人が高祖父ということになる。真勝が生まれる五十年前までは、大臣を出していた氏族だったのである。
もちろん、律令制の始動と同時に、藤原氏以外の氏族は没落を余儀なくされた。しかし、毛人が死去したのが宝亀三年(七七二)、島麻呂が死去したのが天平宝字五年(七六一)であったことを考えると、真勝が生まれた天平勝宝六年(七五四)では、彼は議政官を出す名門氏族の御曹司として、期待を寄せられた誕生だったことであろう。
しかし、阿倍氏が往年の輝きを取り戻すことはなかった。平安時代に入ると、御主人の玄孫である安倍兄雄(あにお)が平城(へいぜい)天皇の代に参議、引田系の安倍寛麻呂(ひろまろ)が嵯峨(さが)天皇の代の参議、その子の安仁(やすひと)が仁明(にんみょう)天皇の代の大納言となったが、その後はさっぱりで、どこの馬の骨かもわからない(狐の子ではないと思うが)、兄雄の六代目の子孫と称する安倍晴明(はれあきら)、そしてその子孫の土御門(つちみかど)家の「活躍」を待たなければならない。氏族の用字を「阿倍」から「安倍」に替えたのも、没落の一環だったのであろうか。
さてこの真勝であるが、従五位下に叙されたのが桓武(かんむ)天皇の代も末となった延暦二十四年(八〇五)、何と五十二歳の年のことであった。それまでの彼の事蹟は不明であるが、おそらくは下級官人として、数々の微官(びかん)を歴任しながら、老荘の書籍を学んでいたのであろう。そして陰陽頭に任じられたが、これが官司の長官となった最初だったことであろう。陰陽頭は弘仁五年(八一四)まで勤めている。その間、備中守を兼ね、大同三年(八〇八)に治部少輔、翌大同四年(八〇九)に大学頭を兼任している。
そして弘仁五年に陰陽頭を止められ、刑部大輔、そして造西寺長官、弘仁六年(八一五)に造東寺長官に任じられた。若年時からの学問と、陰陽頭としての卜占の知識が、大寺の造営に役に立ったことであろう。
弘仁十一年(八二〇)に従四位下に叙され、神祇伯に任じられた。父親の官歴を考えれば、これでも異数の出世と言えるであろう。若い頃から学問や諸道に励んだ甲斐もあったというものである。
しかし、中央官としての真勝の活躍も、ここまでであった。位階こそ従四位上に上ったものの、その後は甲斐守と伊予守を歴任し、冒頭に触れたように、伊予守で卒去した。七十三歳というから、当時としては長寿に恵まれた方であった。
真勝の学識故か、弘仁三年(八一二)には『日本書紀』の講読に預り、弘仁六年に成立した古代氏族の系譜書である『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の編纂にも参画している。はたして真勝は、名門阿倍氏については、どのように関わったのであろうか。
卒伝によると、真勝の性格は飾り気がなく律儀で、媚び諂うことを好まなかったとある。こういった人が職場にいてくれると、一服の清涼剤のように清々しい気分になるものである。また、老荘を学び、文章をよく口にして読みも流暢であったが、その内容には精通していなかったともある。ただし、あくまでこれは、専門の学者と比較すればの話であって、官人としては十分な教養を身につけていたと理解すべきであろう。
卒伝は、歴任した官職では寛静をもって対処したと賞賛されたと結ばれている。このような上司(まして長官)がいてくれればなあ、と羨しく思う今日この頃である。