(歴史学者・倉本一宏)
無能な官人の特殊な趣味
前回に続いてこれも、とても他人とは思えない、愛すべき人物である。『日本後紀』巻三十の弘仁十三年(八二二)八月癸酉条(十六日)に、次のように記されている。
相模守従四位下藤原朝臣友人(ともひと)が卒去した。右大臣従一位是公(これきみ)の息男で、従三位乙麻呂(おとまろ)の孫である。生まれつき小人物で、礼儀や規則を守らなかった。仙道(仙人の術)を好んだが、空中に飛翔することはできなかった。大同の初年、伊予親王の事変に縁坐して、下野守に左遷された。弘仁年中に恩赦によって入京し、従四位下を授けられ、すぐに相模守に任じられた。病が発(おこ)り、現職のまま卒去した。年は五十六歳。
藤原氏嫡流であった南家の人物で、武智麻呂の曾孫にあたる。父は右大臣にまで上った是公であるから、この友人も、もっと出世してもよさそうなものなのに、相模守で終わっている。
拡大画像表示
姉妹の吉子が桓武天皇の夫人となり、生まれた伊予親王が「伊予親王の変」をでっち上げられて、母子共に自殺するという悲劇に連坐したのであるが、それでも同母兄の真友は参議、雄友は大納言という議政官に上っているのであるから、やはり友人の遅い昇進は特筆すべきものである。なお、弟友も同母兄と思われるが、侍従で終わっている。おそらくは早世したのであろう。
実は「伊予親王の変」に連坐する以前から、友人は「生まれつき小人物で、礼儀や規則を守らなかった」のである。小人物であることはともかく、礼儀や規則を守らないのでは、とても出世は望めなかったであろう。
ここまでなら、どこにでもいる無能な官人なのであるが、特筆すべきはその特殊な趣味である。何と仙人の術を好んだとあるから、道教に熱中していたのである。古代日本では公式には採り入れられなかった道教に、何故か友人は惹かれたのであろう。もしかしたら、没落しかかっている南家の行く末、また政変で左遷された虚しさ、さらには兄たちに及ばぬ挫折感から、このような逃げ道を選んでしまったのかもしれない。
道教には煉丹・房中・導引・調息・服食など、様々な術があるのであるが、「空中に飛翔することはできなかった」とあることから、友人が熱中したのは天仙、つまり 天上に昇って仙人になることだったものと思われる。「邪累を除き去り、心神を洗い清め、修行を積み、功を立て、徳を重ね、善を増していけば、やがて白日に昇天したり、世上に長生することができる」という(『魏書』釈老志)。
当然ながら、道教の究極的な到達点であるとされる白日昇天の境地に、友人などが至るはずはなく、相模守のまま卒去した。もう五十六歳になっていた。
こんな人物が国守として赴任してきた相模国の人々は、さぞや困ったことだったであろう。相模国府(現在の神奈川県平塚市)でも、昇天の術を試していたのであろうか。