大坂城の高石垣 撮影/西股 総生(以下同)
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(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は中世・戦国時代(城織豊系以前)の城から近世城郭への移り変わりを考察します。

「土の城から石の城へ」という誤解

 今年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟』は、群雄割拠の戦国乱世が統一へと向かう時代を描くわけだが、この時代はまた日本の城が革命的な変化を遂げた時代でもあった。すなわち、壮麗な天守や高石垣を備えた織豊系城郭が出現し、近世城郭のスタンダードとして普及していったわけである。

 このように書くと、「土の城から石の城へ」という図式を思い浮かべる人が多いだろう。でも、「土の城から石の城へ変化した」という理解は、全く間違いではないけれども正解でもない。答案でいうなら、まあ30点か、よくて50点止まりである。

肥前名護屋城の崩れた石垣

 なぜかというと、中世・戦国時代(城織豊系以前)の城=土の城、近世城郭=石の城ではないからだ。織豊系城郭が出現する以前から石は築城に用いられていたし、当然、石を積むことは織豊系城郭の専売特許でもない。それに、近世城郭の全てが石垣造りでもない。

 石垣造りの城は、たしかに近世城郭のメインストリームではあるのだけれど、圧倒的多数派ではない。正確に数えたわけではないが、主城部を総石垣造りとした城は、たぶん近世城郭の半分くらいだろう。

 もう少し丁寧に、時系列で説明してゆこう。

北条氏照の居城だった八王子城。発掘調査に基づいて修復整備された御主殿の通路

 石を積んだ城が最初に日本列島に登場したのは、7世紀後半のことである。朝鮮半島への軍事介入で敗退し、唐・新羅の侵攻に備えることとなった大和政権は、渡来人(亡命百済人)の技術指導の下に、九州から瀬戸内一帯に朝鮮式山城と呼ばれる城を築いた。高い山の頂部付近を塁壁によって大きく囲い込むタイプの城で、ここに精緻な石積技術が用いられていたのだ。

 なお、「朝鮮式山城」は学術用語としては「ちょうせんしきさんじょう」と発音するのが慣例となっている。「山城」を「さんじょう」と音読みするのは少し不思議な気もするが、日本の古代城郭は常に半島や大陸の城との比較で理解する必要があるし、都を城壁で囲んだ「都城(とじょう)」、集落を防衛する「邑城(ゆうじょう)」と対置して語るなら、「山城」も「さんじょう」と音読みする方が自然だからだ。

岡山県・鬼ノ城(きのじょう)。水門周辺に残る精緻な石積遺構

 朝鮮式山城は、実際には律令軍制や防人などの制度とセットで機能するものであった。このたちめ、平安時代になって日本が外交的に孤立し、律令軍制が有名無実化するにつれて城としての機能を失い、平安時代の中頃までには廃墟となっていった。精緻に石を積む技術も、継承されずに途絶えることになる。

 再び築城に大々的に石が使用されるのは、鎌倉時代後半のことである。そう、元寇防塁だ。文永11年(1274)の役で苦戦した鎌倉幕府は、元軍の再侵攻に備えて博多湾一帯に防塁を築くこととした。これが元寇防塁といわれる施設で、当時の史料で「石築地」と呼んでいるように、石を積んで造った長大な防塁である。

福岡市・生の松原に残る元寇防塁。画面奥の高い石塁は修復されたもの

 はたして元軍は弘安4年(1281)に再び攻め寄せたものの、防塁に拠って水際阻止に努める戦術が奏功し、元軍は海岸に足かがりを確保できないまま海上をさまよった挙げ句、台風に遭遇して潰滅してしまった。

 幕府側では3度目の侵攻があると踏んで(実際、元は再侵攻を企図していた)、防塁と警備体制の維持に努めた。しかし、西日本一帯の御家人たちに課された「石築地役」は大きな負担となり、鎌倉幕府滅亡の遠因となったともいわれている。結果として、元寇防塁の築造技術も継承されず、以後、日本は長い「土の城」の時代を過ごすことになる。

静岡県三島市の山中城は戦国末期に北条氏が築いた巨大な土の城