紫式部公園・寝殿造庭園と釣殿(福井県越前市) 写真提供/倉本 一宏

(歴史学者・倉本一宏)

20歳で異例の大出世

 続けて紀氏の官人を取り上げよう。『日本後紀』巻三十三の天長二年(八二五)十二月壬寅条(四日)に、次のように記されている。

越前守従四位上紀朝臣末成(すえなり)が卒去した。末成は大納言正三位古佐美(こさみ)の第九子である。弘仁の初年に従五位下に叙され、十二年に正五位下に叙され、にわかに従四位下を授けられ、天長元年に従四位上に叙された。幼時から聡明で、書籍を博覧した。二十歳にして仮に式部丞となった。異例であったが、当時の議はこれを容認した。外官(げかん)として伊予介に任じられ、出雲・常陸・大和・越前守を歴任した。いずれも任務を首尾よく果たしたとして知られた。但し、名声には実が伴わなかったようで、長を断って短を補うような方法で、辻褄(つじつま)あわせをするようなところがあった。行年四十五歳。正四位上を追贈した。

 前回、取り上げた紀長田麻呂(おさだまろ)とは異なり、末成は大納言古佐美の子であるから、長田麻呂よりも出世する条件には恵まれていた。ただし、古佐美の九男とあるから、その後を継いで議政官となるには、よほどの功績が必要だったことだろう。この頃になると藤原氏の官人も膨大な数に上っており、それでも議政官などの上級官職の数はほとんど変わらなかったから、出世して子孫に高い地位を受け継がせるのは大変なことだったのである。

制作/アトリエ・プラン
拡大画像表示

 卒伝によると、末成は幼い時から理解が早くて賢く、書籍を博覧していたというのであるから、有能な官人となるはずであった。桓武(かんむ)天皇の延暦十九年(八〇〇)にわずか二十歳という若さで仮に式部丞に抜擢されたが、これは異例のこととして議論となったものの、容認されたという。早熟型の秀才だったのであろう。

 十年後、嵯峨(さが)天皇の弘仁元年(八一〇)に従五位下に叙せられ、名実ともに貴族の仲間入りを果たす。このまま出世街道を駆け上がるかと思われたが、実際にはそうはならなかった。

 末成が任じられたのは、いわゆる外官という地方官ばかりだったのである。現代と違って、古代は都と地方との格差は大きかった。畿内(きない)は「ウチツクニ(内つ国)」、つまり天皇や貴族たちにとって内部の場だったのに対し、畿外(きがい)は「トツクニ(外つ国)」と呼ばれ、外部の国として扱われていたのである。

 国司というのは「クニノミコトモチ(国の御言持ち)」、つまり天皇の言葉を地方に持っていき、支配するという重要な地位ではあったが、それでも畿内や都を地盤とする中央貴族にとっては、日の当たらない官であった(今でも本社から地方の支社に赴任することを潔しとしない人がいるようであるが)。

 末成は、時期は不明ながら、伊予介を皮切りに、出雲守・常陸守・大和守・越前守と地方官を歴任した。いずれも重要な国ばかりで、末成が(地方官としては)優遇され、重要な任務を任されていたことが窺える。

 越前守在任中の弘仁十四年(八二三)には、同国の加賀郡が国府(現福井県越前市〈旧武生市〉)から遠く、往還に不便で郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散(ちょうさん)することや、国司の巡検(じゅんけん)も困難であるとの理由を挙げ、建国を提案した。これが受け入れられて、三月に越前国の加賀郡と江沼郡の二郡を分割して加賀国を建てることが決まった(『日本後紀』)。

 また、同年十二月には、大雪によって加賀と京との往還ができなくなったことから、存問渤海客使が停止され、代わりに越前守の末成が渤海使の慰問を担当した(『日本後紀』)。

 このように、地方官としても有能であった末成は、位階の昇叙を受け、淳和天皇の天長元年(八二四)には従四位上に上った。

 しかし、彼の官歴もここまでで、天長二年に卒去したのである。享年四十五歳。当時としても早い方であった。

 と、これだけでは、若くして死んでしまった残念な貴族ということになろうが、卒伝には気になる評価が記録されている。任務を首尾よく果たしたという名声には実が伴わっていなかったとあり、「長を断って短を補うような方法で、辻褄あわせをするようなところがあった」と評されているのである。

 幼い頃から目先が利き、なんでも手際よくこなしてきた癖が直らず、国司となってからも算段に巧みで、大局を見通すような人物ではなかったということなのであろう。

 しかしながら、末成は国政の中枢に坐るような人物には不適格だったかもしれないが、与えられた任務も首尾よくこなせないような無能な連中と比べれば、どれだけマシかわからない。ましてやわずかな自己の権力や権益にのみ汲々とする輩よりは、よほど立派な官人であったと評すべきである。国政の中枢が立派な人物だけで占められているとも思えないし。

 それにしても、幼年時の名声に惑わされず、このような末成の能力(とその限界)を見極めて地方官を歴任させた王権の眼力もまた、恐るべきものである(藤原氏ではなかったことにもよるのであろうが)。末成にとっても、下手に政権中枢に接近して、政変に巻き込まれるよりも、よほど充実した人生であったと言えるのかもしれない。

 なお、紀氏の嫡流は末成の長兄である広浜(ひろはま)の系統が継いだ。末成の子としては安麻呂(やすまろ)と安根(やすね)を挙げる史料もあるが、いずれも詳細は不明である。東大寺八幡宮神主の上司(かみつかさ)家は、安根の子孫を称しているという。