(歴史学者・倉本一宏)
「当初から振るわなかった」藤原京家
久しぶりに藤原氏の官人について述べよう。とはいえ、左大臣として不比等(ふひと)の嫡流であった武智麻呂(むちまろ)に始まる南家や、内臣として不比等の専権を継承した房前(ふさざき)に始まる北家、人事権や軍事権を掌握した宇合(うまかい)に始まり、奈良時代末期から平安時代初期にかけて多くの権臣や后妃を輩出した式家の官人ではなく、始祖の麻呂(まろ)以来、「当初から振るわなかった」と教科書に記されている京家の官人である。
『日本後紀』巻三十六の天長五年(八二八)二月癸丑条(二十六日)には、次のような薨伝が載っている。
従三位藤原朝臣継彦(つぐひこ)が薨去した。(略)生まれつき聡敏で、識見と度量を有していた。もっとも天文暦法に精通し、また笛や弦楽器に習熟していた。酒盃を重ねて酔っていても、奏楽に誤りがあると、必ず正した。行年、八十歳。
京家の始祖である麻呂は、天武(てんむ)天皇の夫人として新田部(にいたべ)皇子を産んだ藤原五百重娘(いおえのいらつめ/鎌足[かまたり]の女)が、天武の死後、異母兄の不比等と通じて産んだ子である。麻呂は三人の兄たち(母は蘇我氏の血を引く石川娼子[しょうし/媼子])とは異なって権力に恬淡で、『尊卑分脈』の「麿(まろ)卿伝」によると、常に、「上には聖主(せいしゅ/聖武[しょうむ]天皇)が有り、下には賢臣(けんしん/武智麻呂や房前たち)が有る。僕の如きは何を為すであろう。やはり琴と酒に専念するだけだ」と談っていたという、まことに愛すべき人物であった。
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その麻呂は、多賀城(現宮城県多賀城市)から出羽柵(現秋田市)に達する道路の建設が計画された際、途中の男勝(現秋田県湯沢市)を制圧するため、天平九年(七三七)四月に持節大使として発遣された。この使節は一度も軍事行動を起こすことなく、任を果たした。疫病流行のなか、このまま多賀城ででも待機していれば、麻呂も命を落とさずにすみ、もしかしたら麻呂政権の誕生もあったのであろうが、そうはならなかった。
急いで七月に帰京した麻呂は、兄たちと同じ運命をたどり、疫病に罹って死去した。『尊卑分脈』の「麿卿伝」には、「其の命を終えるに及んでは、朋友は血の涙で泣いた」という伝記が載っている。これも麻呂の人柄によるものであろう。
権力欲がなく、琴と酒に専念した麻呂の政権が生まれ、その子孫が藤原氏嫡流として後世にまで続けば、日本の歴史はまったく違った様相を見せたはずであるが、残念ながらそんなことはなかった。
麻呂の男子として確認できるのは、浜足(はまたり/浜成[はまなり])のみである。琴と酒が好きな麻呂は、女性には恬淡だったのであろう。浜足(母は何と因幡国造気豆[いなばのくにのみやつこけず]の女)はその薨伝に、「ほぼ群書に渉り、頗る術数を習う」と称される才能の持ち主であった。しかし、せっかく参議に上ったものの、天応二年(七八二)に起こった氷上川継(ひかみのかわつぐ)の変で左降され、男たちもそれに連坐してしまった。継彦は浜足の三男であった。
ただし、浜足の子孫は細々と生き残り、貞観(じょうがん)十一年(八六九)に冬緒(ふゆお)が参議に任じられ、大納言にまで昇進することになる。元慶三年(八七九)に元慶官田(がんぎょうかんでん)の設置を奏上した。地方官を歴任し民政に通じた有能な官僚であり、また露蜂房(ろほうぼう)と槐子(えんじゅ)を服用し、八十歳を過ぎても頭髪に白髪なく、房室(ぼうしつ)も断たなかったとされる。
なお、浜成の子大継(おおつぐ)の女の河子(かし)は桓武(かんむ)天皇の宮人(きゅうじん)に召され、仲野(なかの)親王を産んだが、家の興隆には結び付かなかった。ただし、仲野親王の女に、光孝(こうこう)天皇女御で宇多(うだ)天皇の母となった班子(はんし)女王がいることから、京家の血脈は女系で天皇家に入り込み、現在に至っている。
さて、継彦は、天平勝宝元年(七四九)の生まれ。浜足の子のなかで、継彦だけが生母の系譜が多治比県守(たじひのあがたもり)の女(本名は不明)とわかっている。多治比は宣化(せんか)天皇の子孫で、県守は中納言に至った人物である。継彦は宝亀十一年(七八〇)に三十二歳で従五位下に叙爵され、翌天応元年(七八一)に兵部少輔に任じられた。まずは順調なスタートだったと言えよう。
しかし、先に述べたように、天応二年の氷上川継の変において、父浜成と共に連座して解官となった。後に赦されて任官されたものの、延暦八年(七八九)に四十一歳で主計頭、延暦十八年(七九九)に五十一歳で左少弁・陰陽頭、延暦二十四年(八〇五)に五十七歳で左中弁、大同元年(八〇六)に五十八歳で民部大輔、弘仁元年(八一〇)に六十二歳で山城守、この頃、刑部卿を歴任するなど、官人としての歩みは鈍った。とはいえ、数々の要職を歴任するなど、桓武・平城(へいぜい)・嵯峨(さが)天皇といった歴代の天皇にとっては、頼りになる有能な官人だったのであろう。
そして弘仁十三年(八二二)に七十四歳で従三位に昇叙され、公卿に列したが(したがって、卒伝ではなく薨伝が正史に遺った)、議政官に任じられることはなく、天長五年に薨去したのである。
生まれつき、聡明鋭敏で、見識を有しており、度量もあったとなると、もっと出世してもよさそうなものであるが、やはり京家の出身ということで、式家や北家の権力中枢からは疎んじられたものと思われる。
また、天文や暦法にも精通し、笛や弦楽器にも熟練していたというのであるから、なんだかものすごく立派な人物に思えてくる。官人としての栄達がすべてに優先するような人物であれば、この官歴には不満だったことであろうが、おそらくは、あまり出世して忙しくなったり権力闘争に巻き込まれたりするよりは、ほどほどの地位に留まって、趣味の世界に生きた方が楽しいと思うような人物だったのではあるまいか(私のことなのだが)。
私がすごいなと思ったのは、曲の演奏に誤りがあると、酒杯を重ねて酔っていても必ず後に振り返って正したという、薨伝の末尾の部分である。おそらくは『日本後紀』の編者も、これに感動して、薨伝に載せたのであろう。人間誰しも、酒に酔っていくと、もうどうなってもいいやという気分になるものであるが、それでも音楽には厳しくて、誤りを見過ごせない性格だったのであろう。私としては、これは趣味に関することだけであったのか、はたまた仕事の場合もそうであったのか、気になるところであるが。
なお、継彦の五男の雄敏(おとし)は、法律に通じ、『令義解』撰者の一人となっている。また、継彦六男の貞敏(さだとし)は琵琶の祖で、雅楽(ががく)の日本への移入と国風化に寄与した人物である。こうして京家は管絃の家へとつながっていく。和歌の興風(おきかぜ)、和歌・舞楽の忠房(ただふさ)など、平安文化の興隆に特異な光芒を放った人物を輩出している。これも祖である麻呂の遺徳と称すべきであろう。