(歴史学者・倉本 一宏)
四十六歳で従五位下に叙される
皇親をとりあげるのは、はじめてである。『日本文徳天皇実録』巻八の斉衡(さいこう)三年(八五六)九月癸丑条(十三日)は、春枝(はるえ)王の卒伝を載せている。
散位従五位上春枝王が卒去した。春枝王は、四世従五位下仲嗣(なかつぐ)王の第八男である。人となりは謙退で、篤く仏道を崇んだ。若くして嵯峨(さが)太上天皇に仕え、承和(じょうわ)の初年に越後介となった。すこぶる政績が有った。承和十年正月に従五位下に叙された。時に嵯峨太上天皇が崩御した諒闇に当たっていたが、特に治国の者を選んで、春枝はこの選叙に預かった。すぐに能登守となった。あの国は長年、荒廃して、百姓は煩わしいほど騒いでいた。春枝は任国に到り、三年に及ぶ頃、国はようやく復興し、民は安心していられた。上請して定額寺の大興寺を国分金光明寺とした。夏安居の講は、みずから参加して勤修した。梵唄の響きは、昼夜、休むことは無かった。仁寿三年七月、中務少輔となった。十月、遷任されて正親正となった。仁寿四年正月、従五位上に叙された。斉衡二年正月、下総守となったが、病が篤いと称して、任国に赴かなかった。隠居して療養したが、天皇の恩が有って、諸々の節禄や位禄などは、見任の官人に准じて給わった。卒去した時、行年は五十九歳。
春枝王の子女三人は、承和十年(八四三)に天武(てんむ)天皇後裔の六世王に対して臣籍降下が行なわれた際、高階(たかしな)真人の氏姓を賜わった。高階氏というのは、長屋(ながや)王の王子安宿(あすかべ)王が宝亀(ほうき)四年(七七三)に高階真人姓を賜わったのを初見とするが、むしろ一条(いちじょう)天皇中宮(後に皇后)の藤原定子(ていし)の外戚になるなど、後世に栄えたのは安宿王の異母弟である桑田(くわた)王の系統である。
天平(てんぴょう)元年(七二九)の長屋王の変において、吉備(きび)内親王が産んだ膳夫(かしわで)王・葛木(かつらぎ)王・鉤取(かぎとり)王、石川虫丸(むしまろ)の女(むすめ)が産んだ桑田王は、長屋王や吉備内親王とともに死を賜わったが、藤原不比等(ふひと)の女である長娥子(ながこ)が産んだ安宿王・黄文(きふみ)王・山背(やましろ)王は赦された。
しかし、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(七五七)の橘奈良麻呂(ならまろ)の変で反藤原氏の面々に担がれて、安宿王は佐渡(さど)に流され、黄文王は拷問の最中、杖下に死んだ。兄たちを密告した山背王は特に藤原弟貞(おとさだ)の姓名を賜わった。
まことに陰惨な「奈良朝の政変劇」であるが、安宿王は後に許され、宝亀四年(七七三) に高階真人を賜わった。おそらく春枝王はこの系統であろうと思われる。
さて、律令の規定では、天皇から四世までは皇親の列に入れられ、数々の特権を得ていたが、慶雲(けいうん)三年(七〇六)に改められて、五世まで皇親ということになった。春枝王の子供たちは、長屋王の祖父である天武天皇から数えて六世になるというので、臣籍降下させられたのである。なお、この時に高階真人を賜わった春枝王の子たち(岑正[みねまさ]・是子[これこ]・貞子[さだこ]) は、その後は史料に見えない。五位以上に叙されることはなかったのであろう。
春枝王は延暦十七年(七九八)の生まれ。母は不明である。人となりは謙退(相手を敬って自分を控えめにすること)で、篤く仏道を崇んだとある。天長年間に嵯峨太上天皇に仕え、承和初年に越後介に任じられた。非常に治国の功績があり、嵯峨崩御にともなう服喪期間であるにもかかわらず承和十年(八四三)に特別の叙位を受けて従五位下に叙爵された。
律令の規定通りならば、皇親は二十一歳で従五位下に叙されるはずであるが、この規定は当初から守られていなかった。それにしても、春枝王が従五位下に叙されたのが四十六歳の承和十年というのは、遅すぎると言わざるを得ない。当時はまだ位階にともなう給与が支給されていたから、これは一種の財政緊縮策だったのであろう。まさか罪人の子孫だから遅らされたのではないと思われる。
その翌日、能登守に任じられ、赴任した。当時、能登国は長年にわたって荒廃しており、百姓は煩わしいほど騒いでいた。春枝が任国に到って三年に及ぶ頃に、ようやく復興し、民は安心して暮らした。上請して定額寺の大興寺を国分金光明寺(国分寺)とした。夏安居の講には、みずから参加し、梵唄の響きは、休むことは無かったとある。
しかしそれでも、次の官にはなかなか就くことができなかった。仁寿元年(八五一)に仁明(にんみょう)天皇御忌斎会の検集校会衆僧房司という臨時の職に補されたという記事があるくらいである。この頃になると、藤原氏の官人も膨大な数に上っており、皇親の政治的役割も終わっていたのである。
次の官に任じられたのは、仁寿三年(八五三)の七月に中務少輔(中務省の次官)、十月に正親正(皇親籍や禄を扱う下級官司の長官)である。ここでも勤務成績はよかったのであろう、翌斉衡元年(八五四)に従五位上に昇叙された。従五位下に叙されてから、実に十一年後のことである。そして斉衡二年(八五五)に下総守に任じられた。
しかし、病が篤いと称して、任国に赴かず、隠居して療養したが、文徳(もんとく)天皇の恩が有って、節禄や位禄などは、見任の官人に准じて給わった。卒去したのはその翌年の斉衡三年(八五六)のことであった。
以上、平安時代における皇親の没落の過程をたどってみた。高階成忠(なりただ)(高二位)のように皇親がふたたび高位を得るには、特別な条件が必要だったのである。