遣唐使船(復元) 写真/倉本 一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

「業として」医術に練達、最も医療を解した

 次は珍しいテクノクラート(技術官僚) である。『日本文徳天皇実録』巻五の仁寿三年(八五三)六月辛酉条(二日)は、侍医菅原梶成(すがわらのかじなり)の卒伝を載せている。

侍医外従五位下菅原朝臣梶成が卒した。梶成は右京の人である。業として医術に練達し、最も医療を解した。承和元年、遣唐使に従って渡海した。朝廷は梶成が医経に明達しているので、その疑義を請問させた。承和五年春に解纜し、唐岸に着いた。承和六年夏、本朝に帰った。帰路に狂風に遭い、南海に漂着した。風浪は激しく船の艫(とも)を叩いた。急に雷電が霹靂(へきれき)し、船を砕き破った。天は昼も暗黒で、海路の東西もわからなくなった。しばらくして漂着した。どこの島だかわからなかった。島には賊類がいて、数人を傷害した。梶成は特に仏神に祈願し、乗員は全て助かった。遣唐判官良岑長松(よしみねのながまつ)たちと力を合わせ、すぐに破れた船の材木を採集し、一隻の船を造って共に乗った。時に便風が船を進め、本朝の岸に着くことができた。朝廷はその誠節を誉めて、承和十年に針博士とし、次いで侍医とした。役所で卒去した。

 梶成は系譜が不明である。もともとは宿禰(すくね)姓であったし、極位も外位であったから、はたして道真たちの属する菅原氏本流と同族であったか、非常に疑問である。

 医家として有名な、『大同類聚方(だいどうるいじゅうほう)』の撰者である出雲広貞(いずものひろさだ)の子に菅原峯嗣がおり、峯嗣(みねつぐ)も『金蘭方(きんらんほう)』を撰した名医であった。峯嗣は元は出雲(いずも)氏であったが、貞観十年(八六八)に出雲姓から菅原姓に改姓されている。

 もしかしたら梶成も、この峯嗣の近親者で、いずれの時期かに菅原姓に改姓されたのかもしれない。なお、峯嗣は生年は延暦十二年(七九三)、没年は貞観十二年(八七〇) であり、梶成とほぼ同世代と言えよう。

 梶成は承和元年(八三四)正月に、同族の菅原梶吉(かじよし)とともに宿禰姓から朝臣姓に改姓されているが、この時に菅原氏への改姓も行なわれた可能性もある。

 梶成は右京で生まれたが、「業として」医術に練達し、最も医療を解したとあるから、父や祖父も医家であったのであろう。

 承和元年に、医術に通じていたことから、医術上の疑義を解決することを目的に、遣唐知乗船事として遣唐使の随行者に加えられた。この遣唐使は、以前に述べた、藤原常嗣(つねつぐ)を大使とし、副使の小野篁(たかむら)が乗船を拒否し、そして円仁(えんにん)が請益僧として乗り込んだ、最後の派遣となったものである。何と梶成は第四船に乗らされることになったのである。第二船ですら、もとは「穴が開いていて水が漏れた」第一船を替えられたものだったのであるから、第四船はどのような状態であったか、推して知るべきであろう。

 それでも承和五年(八三八)に無事に入唐し、翌承和六年(八三九)に帰国の途に就いた。今度は梶成は第二船に載せられた。これはちゃんと修理したのだろうかと、他人ながら心配になってくる。

 あにはからんや、第二船は帰路に暴風に遭い、南海に漂流して、見知らぬ島に漂着してしまった。「風浪は激しく船の艫を叩いた。急に雷電が霹靂し、船を砕き破った。天は昼も暗黒で、海路の東西もわからなくなった」とあるから、さぞや恐ろしい航海だったことであろう。ここでいう「南海」は、言うまでもなく、律令制の五畿七道の南海道ではなく、どこか南方の海のことである。通常、遣唐使は明州から出帆するから、南に流されたとなると、現在の台湾周辺の小島あたりが該当するであろうか。

「島には賊類がいて、数人を傷害した」とあるが、当時は台湾も中国語の通じない島であって、中国の史料でも、台湾を人を食う恐ろしい島として記している。周辺の小島だと、なおさらである。突然に大船が漂着したりしたら、これを殺害しようとするのも、当然のことなのであった。

 ここで「梶成は特に仏神に祈願し、乗員は全て助かった」とあるが、まさか祈願だけで助かるとは考えられないから、何らかの「外交的」手段を講じたのかもしれない。後に日本に帰国した際に、現地の人々と戦った際に捕獲した五尺鉾一枚、片盖鞘横佩(太刀)一柄、箭一隻を朝廷に献上しているから(『続日本後紀』承和七年六月五日条)、多少の戦闘も行なったのであろう。

 梶成は「すぐに破れた船の材木を採集し、一隻の船を造って共に乗った」とあるのは、すぐれた造船技術の持ち主であったことが窺えよう。台湾から日本の南西諸島に石器時代の船で航海する試みが幾度も行なわれているが、いずれも失敗に終わっていることから考えると、材料や工具にも恵まれていたのであろうが、当時の技術の高さがよくわかる例である。

 出帆した一行は便風に恵まれ(たんに黒潮に乗っただけかもしれないが)、日本の大隅国(現鹿児島県東部)の海岸に着くことができた(『続日本後紀』承和七年四月八日条)。

 無事に大隅国に着けたからいいが、そこを逃すと、あとは土佐国の岬、次は紀伊国、さらには伊豆国、安房国と、漂着候補地は限られる。下総国の犬吠埼を逸れてしまうと、あとは「ハワイ航路」となってしまう。当時のハワイ諸島に漂着するのは、南海の小島に漂着するのと、選ぶところはなかったのである(ハワイまで生きていられたとは思えないが)。

 ともあれ、「朝廷はその誠節を誉め」、承和十年(八四三) に梶成を針博士とし、次いで侍医に任じた。侍医というのは、律令では中務省被管の内薬司に属する医官名で、寛平八年(八九六)に内薬司が廃止されたのに伴い宮内省被管の典薬寮に移管された。定員は四人で正六位下相当の官。常に宮中にあって天皇を診察し、医薬を奉ることをつかさどる医者である(『国史大辞典』による。新村拓氏執筆)。誠節を誉めたというより、これまでの修養に加えて、唐での疑義解決によるものであろう。

 ところが、十年後の仁寿三年、正月に外従五位下に叙されたのも束の間、六月に「役所で卒去した」とある。これも真面目に過重勤務を続けた姿が思い浮かぶ。その間、さぞかし唐で得た新知識によって、仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)天皇をはじめ多くの人々を治療したことであろう。

 考えてみれば、家業とも称すべき医術を極め、困難に遭遇しながらも、それを乗り越え、本場で仕込んだ技能を発揮して仕事を全うしたという、まことにあっぱれな人生であったと言えるであろう。