(歴史学者・倉本 一宏)
左大臣藤原冬嗣の長子
次は藤原北家の比較的権力中枢に近い人物である。『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』巻八の斉衡(さいこう)三年(八五六)七月癸卯条(三日)には、藤原長良(ながら)の薨伝が載っている。
権中納言兼左衛門督従二位藤原朝臣長良が薨去した。長良は、贈太政大臣正一位冬嗣(ふゆつぐ)の長子である。志行は高潔で、寛仁は節度が有った。弘仁(こうにん)十三年に内舎人となった。正良(まさら)親王が東宮であった時、朝晩、近侍した。花の時や月の夜、戯れの席や射場で、親王は毎度、対等の交わりを許されたが、長良は常に冠や礼装を崩さず、馴れ馴れしい態度を取ることはなかった。天長元年二月に従五位下に叙され、天長(てんちょう)二年二月に侍従となった。天長十年二月に左兵衛権佐となり、三月に転任して左衛門佐となった。太子が踐祚して仁明(にんみょう)天皇となった日に、正五位下に叙された。承和(じょうわ)三年正月に従四位下に叙され、遷任して右馬頭となった。承和六年に転任して左馬頭となった。承和九年八月に遷任して左兵衛督となった。承和十一年正月に従四位上に叙され、参議となった。承和十五年正月に遷任して左衛門督となった。嘉祥(かしょう)三年四月に正四位下に叙され、九月に従三位に叙された。天皇が崩御した後、哀泣が絶えなかったことは、父母のようであった。初め肉食を断って冥助を祈ったのである。仁寿(にんじゅ)元年十一月に正三位に叙され、仁寿四年八月に権中納言となった。薨去した時、行年は五十五歳。長良は兄弟間の関係は、友愛が天に至った。士大夫に接しても常に寛容で、貴賤を問わず人から敬慕された。後に元慶元年に至り、正一位左大臣を追贈された。元慶(がんぎょう)三年、重ねて太政大臣を贈られた。子は六人いて、第三子が基経(もとつね)である。今の摂政右大臣でもとつねある。基経は幼少の日、敬愛したことは諸子と異なっていた。古人に格言が有って、子を知るは父に如かずというが、誠であることよ。少女高子(たかいこ)は、つまり今の中宮である。これは先人の余慶が遠く及んだものである。
長良は左大臣藤原冬嗣の長子として、延暦二十一年(八〇二)に生まれた。母は藤原真作(まつくり)の女(むすめ)の尚侍美都子(みつこ)。同母弟に良房(冬嗣二男)・良相(冬嗣五男)、同母妹に仁明天皇の女御となり、文徳(もんとく)天皇を産んだ順子(じゅんし)がいた。嵯峨(さが)天皇の時代の最高権力者である冬嗣の嫡子なのであるから、その後継者となってもよさそうなものであったが、そうはいかなかった。考えてみれば藤原氏は、遠祖の鎌足以来、長子が後継者となった例はなく、それは道長(みちなが)一男の頼通(よりみち)の代まで続いた。
長良は弘仁十二年(八二一)に二十歳で内舎人となって出仕を始め、天長元年(八二四)に二十三歳で従五位下に叙爵された。その後は、天長十年(八三三)に三十二歳で左兵衛権佐、ついで左衛門佐に任じられた。ここまでは順調な出世であったが、承和三年(八三六)に三十五歳で右馬頭、承和六年(八三九)に三十八歳で左馬頭と、枢要の地位からは離れた。
承和七年(八四〇)に三十九歳で蔵人頭、承和十一年(八四四)に四十三歳で参議に任じられ、公卿の地位に上ったが、そのまま参議に据え置かれ、斉衡元年(=仁寿四年、八五四)に五十三歳で権中納言に上った。明らかに、権力の中枢とは遠い存在であった。その二年後に五十五歳で死去するのであるが、その後、さらに長命を得ていても、大臣に上ることはなかったであろう。
そのあたりを二年年少の良房、十一年年少の良相と比較してみよう。良房は二十三歳で蔵人に補され、中判事に任じられた。二十五歳で従五位下に叙爵された。天長十年(八三三)に三十歳で長良に先んじて蔵人頭に補され、承和元年(八三四)に三十一歳で参議に任じられた。これも長良に先立つこと十年である。その後、承和二年(八三五)に三十二歳で権中納言、承和七年(八四〇)に三十七歳で中納言、承和九年(八四二)に三十九歳で大納言、嘉祥元年(八四八)に四十五歳で右大臣、天安元年(八五七)に五十四歳で太政大臣、貞観八年(八六六)に六十三歳で摂政に補されるのである。
良相の方は、承和元年(八三四)に二十二歳で蔵人、承和五年(八三八)に二十六歳で従五位下に叙され、承和十一年(八四四)に三十二歳で長良の後任の蔵人頭、嘉祥元年(八四八)に三十六歳で参議、仁寿元年(八五一)に三十九歳で権中納言に上った。長良に先立つこと二年であった。その後も斉衡元年(八五四)に四十二歳で大納言(その後任として長良が権中納言に昇進した)、天安元年(八五七)に四十五歳で右大臣に上った。
同母兄弟の中では、明らかに長良だけ、昇進が遅れていて、極官も権中納言に過ぎなかったのである。ちなみに、異母兄弟の極官は、冬嗣三男の良方が大蔵大輔、四男の良輔が雅楽助、六男の良門が内舎人、七男の良仁が中宮大夫、八男の良世が左大臣と、良世を除けば長良よりも出世しておらず、それらよりはマシといったところである。
冬嗣と嵯峨との関係に関しては、興味深い指摘がある。冬嗣は、長良・良房・良相などすべての男子八人に「良」字を冠しているが、嵯峨も正良・業良(なりよし)など五人の皇子に「良」字を付けたという事実である。冬嗣男には諱が避けられていないのみならず、子供たちに「良」字を共通させることで、冬嗣一家を天皇家に連なる一族として扱うことを表明したというのである(瀧浪貞子『藤原良房・基経』)。
しかし、八人の男子の内で、公卿に上ったのが四人、大臣に上ったのが三人というのは、たしかに王権の優遇を受けていたことは確かであるにしても、嫡妻の男子三人の中で、長良だけが権中納言で終わっており、二人の同母弟に昇進を抜かれているというのは(しかも一人は十一歳も年少である)、長良の方に何らかの事情があったのではないかと勘ぐりたくもなるというものである。
良房が優遇されたのは、何となく納得がいく。すでにその昇進は早くに長良を抜き、次代の藤原氏の中心となることが約束されていたのである。早く弘仁十四年(八二三)に嵯峨天皇皇女である源潔姫(きよひめ)と結婚しているのも、その現われである。嵯峨が良房の資質を、「弱冠(二十歳)の時、天皇はその風操が倫を越えているのを悦んで、特に勅してこれを嫁がせた」と評価してのことであった(『日本文徳天皇実録』)。
しかし、この結婚が、長良の子孫に思わぬ幸運をもたらすことになった。良房は嵯峨に遠慮して、他の妻妾を儲けることはできず、潔姫は良房の男子を一人も産むことはなかった。これも後の頼通など、妻の身分が高い場合にしばしば起こる事象である。後継者難に陥った良房は、長良の三男である基経を養子として、後継者としたのである。
基経は良房の死後、清和・陽成・光孝・宇多天皇の四代にわたって朝廷の実権を握り、初の関白に補された。道長や実資や頼通が実は長良の血を引く子孫であるとは、何となく嬉しい気分になってくる。
なお、長良の女の高子は、おそらくは良房の養女として清和天皇に入内し、貞明(さだあきら)親王と貞保(さだやす)親王を産んでいる。このうち貞明は即位して陽成天皇となっていて(基経に退位させられたが)、長良はその外祖父ということになった。その「功」によって、長良は元慶元年(八七七)に正一位左大臣、次いで元慶三年(八七九)に太政大臣を追贈された。他人事ながらめでたいことである。
なお、中世以前においては、基経の父を養父である良房ではなく実父の長良であると捉える観念が強く、『大鏡』の「大臣列伝」の配列に影響を与えていた。藤原北家の嫡流を良房ではなく長良としているのである。
それよりも、長良で特筆すべきは、その人格である。薨伝によれば、志行高潔にして、兄弟愛が深く、人に接して寛容で、貴賤を問わず人から敬慕されたとある。特に仁明天皇には東宮時代に朝夕侍座して仕え、崩後は肉食を断って冥福を祈ったという。
特に弟たちに昇進で追い抜かれても、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かったというのは、なかなかできることではない。幼少の日にもっとも敬愛していた基経を養子に出すというのも、その表われであろう。
人間誰しも、年少の者や下位の者に追い抜かれると、その者に嫌な感情を抱きがちであるが、そういうこともなく高潔な人格を守り抜いたというのは、まことに天晴れな人物であると称すべきである。